Peter Zumthor
Thinking Architecture
Birkhauser

Peter Zumthor(ペーター・ツムトール、日本ではピーター・ズントーが一般的)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=Peter+Zumthor&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BC
YouTube(Peter Zumthor)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Peter+Zumthor&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.16
Peter Zumthor:ポストモダンの生活は、私達自身の個人的な歴史(一生)を越えたすべてのものが漠然としていて、ぼんやりしていて、どういうわけかアンリアルである(現実的でない)状態としてことばで述べられうるだろう。世界はサイン(記号)と情報で満たされていて、それらは誰も完全に理解しないことを表わ(表象)している、何故ならそれらもまた、単に他のものの為のサイン(記号)に過ぎないことが結局わかるからだ。今なおリアルな(現実の)ことは隠されたままである。誰も今までそれを見ることができたものはいない。それにもかかわらず、私は、それらが危機に瀕しているかもしれないとしても、リアルなことはまさに存在していると確信している。大地(地球)や水、太陽の光、ランドスケープや草木が存在し、そしてオブジェクト(もの、客体)が存在し、それは例えば機械や、道具、あるいは楽器として人によって作られ、それらはそれらが何であるかであり、それらは単に芸術的なメッセージの為の乗り物(媒介物)ではなく、それらのプレゼンス(存在、現前性)は自明だ。

P.17
Peter Zumthor:私達がそれら自身の中で安心している様に見えるオブジェクト(もの、客体)や建物を見る時、私達の知覚は穏やかになり鈍る。私達が知覚するオブジェクト(もの、客体)は私達に対するメッセージを持たない、つまりそれらは単にそこにあるのだ。私達の知覚能力は静かに公平に貪欲でなく成長する。それらはサイン(記号)やシンボル(象徴)を越えるまでに及ぶ、つまりそれらは開かれていて、空虚である。それはまるで私達の意識をそれに焦点を合わせることができない何かを私達が見ることができるかのようである。この点で、この知覚の空白(真空、孤立状態)の中で、記憶が浮上するかもしれない、そして記憶は時間の深淵から生じる様に思われる。今、私達のオブジェクト(もの、客体)の観察は、理解されうるものは何もないから、その全体すべての中で世界のプレゼントメント(表象)に達する(を包含する)。
エドワード・ホッパーの絵画が言うように思われる様に、日々の生活の普通のことの中にパワー(力)がある。私達はそれを見るためにそれらをただ十分長く見なければならないだけだ。

Edward Hopper(エドワード・ホッパー)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&source=hp&q=Edward%20Hopper&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi

完成されたランドスケープ
Peter Zumthor:私にとって、ある建物のプレゼンス(存在、現前性)はそれについての何か秘密のものを持っている。それらは単純にそこにある様に思われる。私達はそれらに対して何か特別な注意を払わない。その上それらがそれらなしの状態である場所を想像することは事実上不可能である。これらの建物はグラウンド(地面)にしっかりと固定されているように現われる。それらはそれらの環境の自明な一部である印象を与え、それらは「私はあなたが私を見るように存在し、私はここに属している(なじんでいる)」と言っている様に思われる。
私は、時間の中で、それらの場所のフォーム(形態、形式)や歴史の一部に自然となりながら成長していく建物、そういう建物を設計したいという激しい欲望を持っている。建築のすべての新しい作品はスペシフィックな(特定の)歴史的な状況の中で起こる(介入する)。新しい建物が、現存する状況とともに意味のある対話へと入って行ける質に達する(を包含する)べきであることは、介入の質にとって本質的である。

→ハイデガーの影響を受けているのはズントー自身が言っているが、「存在」が「現われる」という表現からもわかる。確かにポストモダン(ポスト構造主義)の世界の見方では、世界は記号に過ぎないとも言える。ズントーはそれよりも現象学的な見方に立っている。また「記号や象徴を越えた開かれた空虚」などロラン・バルトの影響も感じられる。(井戸)

Martin Heidegger(マルティン・ハイデガー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC
Roland Barthes(ロラン・バルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88