Donald Judd
Architecture
Hatje Cantz

Donald Judd(ドナルド・ジャッド)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&q=Donald%20Judd&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
美術家の言葉(ドナルド・ジャッド)
http://www.b-sou.com/palw-Judd.htm
You Tube(Donald Judd)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Donald+Judd&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
The Chinati Foundation(チナティー・ファウンデーション)
http://www.chinati.org/visit/openhouse.php

Art and Architecture(アートと建築)

P.25
Donald Judd:妥当な哲学的手法での始まりを再び言うと、ある人はユニティー(全体的まとまり、統一性)であり、なんとかして、長い複雑なプロセスの後に、アートの作品が類似した(同様の)ユニティーになる。しかしその人は実際にはわかりにくく、そのアートもわかりにくい。第一にわかりやすいものは、過去も現在も、アーティストのネイチャー(本質、性質)である。アーティストの興味や思考や質はその作品の最終的な全体の質を作る。ちなみに、私は、私がコミュニケーションしてる人に対する考えがなかったから、決して私の作品をコミュニケーションとして見做すことができなかった。あなたの作品の始まりにおいてパブリックをよく考えることはとてもありえないし(我慢がならないし)、殆どもっとずっとあとのことだ。もしそれが私にとってなるほどと思えるのであれば、それは誰か他の人にもそうだろう偶然の仮定とともに、私は私の作品を私にとってわかりやすくする。人は普通はアイデア(考え)と仮定の偉大な多様性のカオスの中で生きているが、機能は結局ナチュラル(自然、本質的)な方法の中のひとつとして役に立っている。人は合理性のモデルでも、あるいは不合理性のモデルでさえもないが、生きていて、それはとても異なったマター(物事、事態)である。人は少しのソリッドな(しっかりした)知識や、かなり多くの断片的な知識や、多くの仮定や日々作られる暫定的な解決や反応とともに生きている。殆どの人々は幾らかの哲学的アイデア(考え)を持っている。殆ど誰もグランド(主要な)システムの一つによって、ただそれらの化石の様な(固まりきった)断片によってのみでは生きられない。現在のアートもまたグランド・システムに基づかない。アートの中のユニティーはナチュラル(自然、本質的)なユニティーと同じ種類のものであり、知識がとてもはっきりとしなくて断片的な現実化の中で同様に作られる。しかし人が幾らかの断定とともに生きるにつれて、アートは一致(相当)する断定と信任(信頼、確信)とともに作られうる。他に方法がない。人はナチュラル(自然、本質的)な世界や、大抵は多かれ少なかれよく考えると、彼らの家族や友達や、より大きな社会や、また殆どよく考えられないが、過去や、知られていない殆どものと関係を持っている。

P.26
Donald Judd:これらすべてはとても異なっていない方法でアート作品の中で一つにされる。アートは人が生きる様に作られる。それは生活(人生)の中の行為として決定的であるにちがいないし、さらに希望を持って言えば、同様の一般に承認された無知にもかかわらず作られる。しかしアートの断定は生活の中でありふれているよりもより組成と注意に拠っている。その力は長いプロセスに拠っている。コンストラクション(構築)と発展と多くの決断はそれが明白で強くなるために必要である。