Archi Review 第9回
大分県立大分図書館(1966年) 磯崎新
2003年11月1日 井戸健治
1、プロセス・プランニング論と大分図書館
・流動するプロセス(建築の計画過程)自体を形態決定の根拠に
「明るい未来」がただの夢であったことに気付いた時代、建築をつくる根拠をそのプロセス(過程)から導きだそうとする試み。←ルイス・カーンから影響
・「終末論」と「切断」
建築の完成という地点を終末と設定しながら、本当の意味での完成がありえない事を建築の外観に代弁させる意図。(あくまで完成作品としての外観形態に意識が集中)
・空間構成はルイス・カーン的組立
ルイス・カーンのいう「ゲート」(敷地の余白、駐輪場の上部の基壇・スロープ)→「コート」(エントランスホール天井高が高くトップライトからの光のみ)→「ルーム」(閲覧室等へ)を踏襲している。
・外観に言葉を語らせる
大分図書館  →確定的な根拠がない。建築に永遠に続く時間を設定しその切断を外観で語る
筑波センタービル →様式をコラージュしてそれぞれの意味をはぎ取る(脱構築)することを語らせる。
建築の設計の目的で、外観に彼自身の「観念」を話させるという事が中心になっている。
「見せかけ」が重要ということか?
インターナショナルスタイル(装飾付加の忌避)から、建築のポストモダン(外観の自由・無根拠・観念の表明)へ
ゴシックの教会のファサードのテキスト(教本)化と同じ。
・ メタボリズムとの違い
メタボリズムは条件の変化に空間が完全に対応(空間は機能に時間的に従う。)
プロセス・プランニングは条件の変化に空間は実際は対応しないが、観念上(頭の中の)は対応することを外観でしめすという事。
・「主体の不在」
建築は永遠のプロセスの中での一つの「切断」でしかないといっても、「切断」を行うのは主体である磯崎であり、またその「建築の永遠のプロセスと切断という物語」も主体の磯崎のつくった世界でしかないのでは?
2、形態的類似
ルイス・カーン
「イエール大学アートギャラリー」1953年 
→建築と設備と構造の同時解決
「リチャーズ医学研究所」1961年
→サーブドスペースとサーバントスペース、最小の空間の外部への見せ方→メタボリズムへ?
「キンベル美術館」1972年
→ボールト屋根と矩形の屋根
 計画時の規模の変更に対する建築のイメージを保存したままの対応
ポール・ルドルフ
「イエール大学芸術建築学部棟」
マルコ・ザヌーソ
「オリベッティー工場」
大仏様の木組み
3、 磯崎新の建築モチーフ
正方形・立方体→コンポジションの排除
グリッド 主体が排除される無機的なフレームとしてのグリッド←ソル・ルイットのグリッド
引用 →全てが引用だ。様式のコラージュ、各様式の意味の脱構築
4、個人的感想
建築におけるシミュレーション、あからさまな引用における権力や既成概念の崩壊
しかし、建築であるので統合され建物とされる。ということは建築の場合は「単なる振る舞い」的状況がつよいのでは?
いずれにしても、「主体の不在」を目指していても、それは、「主体の不在」を装うことしかできない。そういうシナリオを書く主体・建築家 磯崎が存在する。
現代美術のシミュレーショニズムと同じことなのだが、現代美術ではそれを日常の社会の既成概念で満たされた客体(鑑賞者)に気付かせる(啓蒙的)側面があるのだが、建築でこのシミュレーションを行う事は、業界内部の人間、つまり同業者の建築家という非常に閉じた対象に対しての振る舞いであって、建築(空間)の本質的な問題とは言えないのではないか。それが、端的に外観(ファサード)に建築家の観念を同業者に対して語らせるという事になっているのではないか?
空間の質は、その当時の空間構成そのもの・・・。