Roni Horn
Phaidon

Roni Horn(ロニ・ホーン)
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P.9
Lnne Cooke:ニューヨークのMatthew Marksギャラリーでの「Pi」の展示では、特に、ヒエラルキーがないということが明らかだった。つまりその部屋の4つの壁すべては事実上同じ長さで、3つの入り口があった。スタート地点や、終わりの地点や、焦点がないように思われた。その上、幾つかのイメージは反復され、反転され、対話が発生しあるいは反響が生じる部屋を横切ってお互いに対して位置を定められていた。それゆえ、鑑賞者はいつも横切って、回って、後退して見ていた。つまり、「Pi」は非-方向的で、非-指示的な作品だ。

Roni Horn:指図された始まりあるいは終わりも、そして、そのイメージの間には、単一のモチーフ(主題)の支配もない。物語の可能性(潜在性)、それはイマージリー(集合的イメージ、比喩的表現)のネイチャー(本質、自然)の中に含意されるが、実際決して発展しない。物語をうまく阻むことは人々の興味をひく重要な方法だ。

Lnne Cooke:潮の干満と季節の変化は、直線的というより循環的(周期的)だ。そのような循環(周期)は永遠回帰を連想させる。だから、鳥の生や、勿論、彼らの生の循環(周期)の終わりに向かっているHildurとBjorn老夫婦の生の循環(周期)がある。人は異なるヒストリー(過去の出来事、物語)や、異なるテンポラリティ(一時性、変化流動性、時間的広がり)と持続時間の意識的な層状化と部分的重複化を感じる。

Roni Horn:収穫の循環(周期)もまたある。だから、少なくとも私の心の中には、ネイチャー(自然)と人間のネイチャー(自然、本質)の関係性であり、人類がそれ自身のイメージの中でネイチャー(自然)を作り直そうとしているこの鏡のような関係性である循環(周期)がある。それは土地固有の動物の剥製標本の役割であり、特別な人間にそれらを見させる。主に風変わりで間抜けに見える。おそらく剥製師は全くそれらを正しく理解していないんだろう。それらはお馴染の動物よりも人間に近い様に思われる…私は紋章とHildurを、あるいはミンクとCassieを(アメリカのメロドラマ「模範になる人」の虚構の登場人物)双子の様な存在として見る。

Lnne Cooke:海は抑揚がない。岩の露出もなければ、それを中断する船もない。つまりそれは石版の様に、水のクイントエッセンス(古代哲学の第五元素、真髄)的な広大な広がりである。それはある場所であり定まった場所でない両方であり、とても特定であり偏在である両方である。そこから何であるか明らかにするものは何もなく、個別(単一)のものと一般的なものが混ぜられているということが与えられている。

Roni Horn:テレビスターは一般的な類型だ、だから彼らもまた共同体(集団)の領域の中で作動(機能、活動)する。メロドラマ「模範になる人」の毎日のドラマ(脚本、芝居)はその作品にとって重要な別の循環(周期)だ。どんな種類の人為的(非自然)なものでも、それが含む日常的なドラマは、崖の上や、水の上の、鳥や、死や、生の日常的なドラマに映し出されている。つまり、ドラマのローカル(その土地)で一般的(普遍的)な表現だ。「模範になる人」は、HildurとBjornと殆どの田舎のアイスランドの毎日のお決まりのことの一部だった。

Felix Gonzalez-Torres(フェリックス・ゴンザレス=トレス)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Felix+Gonzalez-Torres+&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
http://www.b-sou.com/palm-Gonzalez.htm
YouTube(Felix Gonzalez-Torres)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Felix+Gonzalez-Torres&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
Roland Barthes(ロラン・バルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88