Richard Serra Sculpture 1985-1998
The Museum of Contemporary Art,Los Angeles
Steidl,Gottingen

Richard Serra(リチャード・セラ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Richard+Serra&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Serra
You Tube(Richard Serra)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Richard+Serra&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
美術家の言葉(リチャード・セラ)
http://www.b-sou.com/palw-Serra.htm

P.194
DS:それだけ多くのあなたがしてきたものはサイト・スペシフィックだ。あなたはこれらのピース(作品)の実際の使用や、既に存在しているものに対するモデルをどのように見ますか?

RS:私が作った円錐形のものはどれも特定のサイトの為に建てられたものではない。つまり、楕円はそのシリーズの継続である。それは如何に私が、完全にヴォリュームを取り囲むだろう器の問題と関わってきたかということである。円錐にしても楕円にしてもそれらの場所に依存していない。それらはサイト・スペシフィックなピース(作品)ではない。ましてそれらはそうである必要もない。他方で、もし可能であれば、私はそれらのすべてを一度でもたった一度でも設置してみたい、そうすればそれらは私がそれらがそのように見られたいと思っている仕方で見られうる。そしてもし、最初のインスタレーションの後、それらは結局他の何処かへ行ってしまい、私はできる限りその様に言いたいと思う。つまり私はおそらくそれを主張するだろう。私はそれを主張「したい」。
しかし、それは、それらが現にあるサイトの為にそれらが作られてきたことを意味しない。全然違う。円錐のピース(作品)のどれも違う。
円錐はおそらく、私は知らないが、約7年か8年現に存在(継続)している。おそらく10年かもしれない。

DS:しかし、あなたはこの様なアイデア(考え)でヴァリエーションのシリーズを以前に決して作らなかった。

RS:ええ、これらについて興味深いものの一つは、それらがモデュールに基づいていないということである。各々のものは明確に創作されている。だからそれらはみんな異なっている。そして、もしあなたが「Intersection(交差)」あるいは「Olson(オルソン)」あるいは「Call Me Ishmael(イシマエルと呼んで)」を挙げるなら、それらはみんな円錐の断面を逆さまにしたものに基づいている。これらはそうではない。これらはスペシフィック(特異な)フォーム(形態)であり、たとえ回転された楕円の扱っている問題は、不変のものであっても、各々は個々に他のものと何か異なっていることをするよう創作している。私達は頂部と底部の楕円をサイズで異ならせることができる、あるいは頂部と底部の楕円をそれらが同じ中心を共有しない様に方向を向けることもできる。しかしそれらの選択肢のすべてはマンネリズムであるように思われる。まさにここで、頂部と底部の部分的重複の程度が異なっている楕円の単純な回転は最も生産的である様に思われる。一つの楕円を他の楕円の中に置くことは、私達が唯一予想できる何かである、なぜなら私達はそれをまだ見ていないからだ。私は長い間この様なシリーズを経験したことがない。
私はまさにこれらのものを建てる一途な努力は結局それらが成るものと多く関係するべきであると思う。それは奇妙に聞こえるが、しかし私はそれは真実だと思う。

P.195
DS:あなたと一緒にいると特に私はあなたの作品が扱っているものはとりわけ好奇心やあなたの問いかけ、つまり、もし・・・であれば何が起こるのだろうか?についてのものではないかと思う。

RS:はい、私ははっきりと声に出して、もし・・・ならば何が起こるのだろうか?と言っていた。そして私はそれがある問題を始める一つの方法(道)であると思う。私にとって、少なくとも、それは事実だ。作品は作品からあらわれる。私はある問題を通して私の方法(道)を考えることはできない。つまり私はある問題を通して私の方法(道)に取り組まなければならない。そしてそれが何故私がものを建てることに興味があるかという理由であり、なぜならしばしば何かを建てる努力を維持するプロセスの中で起こることは、あなたがあなたの意志の結論を予見することができなかったことをあなたが理解することであるからである。フィジカル(物質的、身体的)な事実はフィジカルな表明をしない思考よりも私にとってはよりかなりずっと価値がある。