Peter Zumthor
Thinking Architecture
Birkhauser

Peter Zumthor(ペーター・ツムトール、日本ではピーター・ズントーが一般的)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=Peter+Zumthor&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BC
YouTube(Peter Zumthor)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Peter+Zumthor&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.19
予期しない(意外な)真理
Peter Zumthor:私が若かった頃、私は多かれ少なかれ散漫な隠喩やほのめかし(引喩)で作られた一種の文飾を施した(誇張した、見せかけの)雲として詩をつくったが、たとえそれらが面白いとはいえ、それらは世界の確かな(信頼性のある)見方と結びつくことは難しかった。一人の建築家として、私は、この詩の若い定義づけの反対のものがおそらく真理により近いと理解するようになった。
もしある建築のワーク(作品、取り組み)が、私達に影響を及ぼす(作用する、響く)のに十分効果的な強い根本的なムード(雰囲気)を創り出すために結合(協力、混合)するフォーム(形態、形式)とコンテント(意味、内容)からなっていたら、アートのワーク(作品、取り組み)の質を獲得するかもしれない。しかしながら、このアートは人の関心をひく(おもしろい)コンフィギュレーション(形態)や独創性とは何の関係もない。それは洞察や理解(悟性、思慮)、とりわけ真理と関係しいている。おそらく詩は予期しない(意外な)真理である。それは静けさ(静寂、沈黙)の中に生きている。建築のアート的な果たすべき課題は、この静かな(静寂の、沈黙の)予期されることに、あるフォーム(形態、形式)を与えることである。建物それ自身は決して詩的ではない。せいぜい、それはかすかな質を持つかもしれないが、それ(かすかな質)は、ある瞬間、私達が以前のこの方法では絶対に理解できなかった何かを理解することを許す。

P.21
欲望
Peter Zumthor:建築のワーク(作品、取り組み)の明白で論理的な発展(展開)は、理性的(合理主義的)でオブジェクティブ(客観的、目的的、物質的、実在的)なクライテリア(判断基準)である。私が、デザイン(設計)プロセスのオブジェクティブ(客観的、目的的、物質的、実在的)な過程の中で、サブジェクティブ(主観的、個人的)で取るに足らない(考慮されていない)アイデア(考え、観念)に介在する(介入する、間に起こる)ままにさせておく時、私は私のワーク(作品、取り組み)の中の個人的な感覚の重要性を認める。
建築家達が彼らの建物について話す時、彼らが言っていることはしばしば建物それ自身のステートメント(声明)への余分である。これはおそらく、彼らが彼らのワーク(作品、取り組み)の理性的(合理主義的)で考え抜いた面についてたくさん話し、それのきっかけとなった隠れたパッション(情熱)については殆ど話さない傾向があるという事実と関係付けられる。
デザイン(設計)プロセスは感覚と理性(理由、根拠)との絶え間ない相互作用に基づいている。現れ、フォーム(形態、形式)を与えられることを要求する(必要とする)感覚、好み、切望(熱望)、欲望は、理性化(理論付け)による批評的(批判的)な力によってコントロールされなければならないが、しかしそれは私達に抽象的な考慮(考察)が本当に真に鳴り響くかどうかを私達に話す(示す)私達の感覚である。

→「理性(ロゴス)を鳴り響かせる」というのは、デリダよりもズントーが影響を受けたハイデガーの表現なんだろうか?勿論デリダはハイデガーの影響を受けたんだけれども。(井戸)

Martin Heidegger(マルティン・ハイデガー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC