Peter Eisenman
Written Into The Void
Selected writings
1990-2004

Peter Eisenman(ピーター・アイゼンマン)
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YouYube(Peter Eisenman)
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P.113
15章
L’ORA CHE E STATA
初出:in Metafisica,ed.Ester Coen (Milan:Electa 2003年) P.98~104

→ページを眺めているとジャック・デリダやロザリンド・クラウス、アルド・ロッシ、デ・キリコ、ゴードン・マッタ=クラークの名前が出てきたので読んでみようかなと思う。(井戸)

P.114
絵画の最も重要な果たすべき務めはstoria(物語?)、つまり絵画に発展することを許す歴史を確立することであると初めて言ったのはアルベルティーだった。この歴史はそこではサブジェクト(主題)になることを要求し、そしてそれからのサブジェクト(主題)とオブジェクト(対象物)の間の関係、如何にそのサブジェクトがオブジェクトを見るかということを要求した。この点ではオブジェクトはまさにそのもの以上のものになる。なぜならそれは今歴史を持ち、それはフォーム(形、形式)や表現(表象、代理)や意味や、読むことによって存在やフォーム(形、形式)の中へ入っていく、その存在を越えたこのような理論体系を持ち始めるからである。アートと建築の中の全体の(完全な)理論体系の企ては、疑うことの知らないサブジェクトによって、この歴史の、それに意味の「発明」の中に宿っていると言われ得る。
いかなる分野の歴史も、私達が存在するままにその分野を理解するよう準備させられるところのポイントを私達にもたらす、しかし、それはその分野の中から出てくるだろう何か新しいものは何も私達には用意しない。この内部の新しさは、いかなる分野に対しても自立した単純化できない効果(結果、本質)を作り出す個別のプロジェクトで構成されている。これらのプロジェクトはその内部からその分野を変化させるばかりでなく、一般的な文化的プロジェクトの中でその存在を変化させる。それが存在するままの分野とその分野を部分的に変える起源となるプロジェクトのアイデアの間のこの違いはこのエッセイのサブジェクト(主題)、つまり建築のプレゼンス(存在、現前性)の理論体系と絵画における理論体系のプレゼンスの間の違いを定義付けることから始める。
現在流布している哲学や比較文学の中の脱構築主義あるいはポスト構造主義と様々に呼ばれてきたものは二つの根本的なポイントを持っていると言われ得る。それは、観念論的哲学の批評、あるいは、よりもっとはっきり言えば、その弁証法(論理学)、そしてよりよいことばの不足のためにプレゼンスの理論体系の批評と呼ばれ得るものである。哲学は特に建築をプレゼンスの理論体系のlocus(現場)として投影する。だからそれは初めて見たとき物質的な(客観的な)現実性とその表現(表象)の両方の中に宿っているように思われる。建築における哲学の興味が有益であるかないか、建築がプレゼンスの理論体系のLocus(現場)であるという仮定が真実か、あるいは単に建築の神話の一部である問題にされていない仮定であるかは、確かに建築における今日の論点である。

Leone Battista Alberti(レオネ・バティスタ・アルベルティー)
http://en.wikipedia.org/wiki/Leone_Battista_Alberti
脱構築
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E6%A7%8B%E7%AF%89
ポスト構造主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E6%A7%8B%E9%80%A0%E4%B8%BB%E7%BE%A9
比較文学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%BC%83%E6%96%87%E5%AD%A6