「反解釈」の反解釈を役所への電車の中で読む。
「いま重要なのはわれわれの感覚を取り戻すことだ。われわれはもっと多くを見、もっと多くを聞き、もっと多くを感じるようにならなければならない。・・・・
批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。
解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学を必要としている。」1964年
今のアートはこの60年代半ばのテキストが下敷きになっているように感じる。解釈よりも感覚。
僕の趣味は、理性だけでもつまらないし、感覚だけでもつまらない。理性とそれでは説明のつかないものが混合している状態が作品自体にあること、またはその全体が作品であるということを受け取る許容力、あるいは理性とその誤読への寛容さが、アートだけでなく建築でも何でも面白いと思う。
解釈とはソンタグの言うように自分が知的上流階級であることを見せびらかし、その作品を自分のテリトリー内に飼い馴らし、作品自体が本来もっている作品自体であることを台無しにする行為であるというのは、ある意味その通りだと思う。
60年代からの作品を見る目も僕自身変わってしまう。