The Conversation Series 13
Olafur Eliasson
Hans Ulrich Obrist
Verlag der Buchhandlung Walther Konig,Koln

Olafur Eliasson(オラファー・エリアソン)
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Hans Ulrich Obrist (ハンス=ウルリッヒ・オブリスト)
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You Tube(Hans Ulrich Obrist)
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P.23
Olafur Eliasson:彼(リチャード・セネット)は、ガラスを立て、人々の外部との触覚的な関係性や私達の外部の変化との関係性全部を切り離すことによって、感覚はより表象(再現前)的になると提唱している。モダニスト達はガラスは内部と外部の間の境界を開くと信じていたが、実際私はその反対が真実であると信じている。つまり内部にいる人と外部にいる人の間の社会的差異と同じ様に、境界はよりいっそう明白に露にされた。そして他の側から音や匂いのような私達のセンス(感覚、意味)のいくつかだけを切り離す(孤立させる)ことによって、ガラスはとても現実的な映画とは似つかないあるイメージを創り出す。私達はその外部がそこにあることを知っているが、私達の関与(従事、取組み、関心)はかすかにより表象(再現前)的である。私はいかに多くのセンス(感覚、意味)が作動(従事、組み合わ)されるかということと表象(表現、代理)のレベルとの間に釣り合った(比例した)関係があると論じたい。

Olafur Eliasson:これはサンパウロで取り組もうとしていた何かである。つまりパビリオンの外部の人々は内部から見られたときに、あるイメージあるいは表象(表現、代理)になり、またその逆もあるという概念である。入場料を払わず外部に留まっていた人々はその展示の中をのぞき見て言っただろう、「その中の人々は床がアート作品だと思うが、実際はそれはまさに氷であり、その上を歩いている彼らのイメージが事実上のアート作品であり、この外部から見られるんだ。」だから特に、私のアイデア(考え)は現実と表象(表現、代理)の間の柔らかな境界としてのガラスで取り組むことだった。

Hans Ulrich Obrist:それでは、おそらくそれは現実に対するリトマス試験と同じだ。

Olafur Eliasson:ああ、それはいい。私はそれをタイトルとして使うだろう、「現実に対するリトマス試験」(笑いながら)。

P.24
Olafur Eliasson:しかし私の現実と表象(表現、代理)についてのアイデア(考え)に戻ると、もし私達が街路を下りながらウォークマンを聞いているなら、私達の周囲の音を音楽で置き換えながら、この「サウンドトラック」のおかげでその街路の経験は変わる。つまりナレーション(叙述、語り、物語)のフォーム(形態、形式)を獲得する。もし私達が、ニューヨークの5番街の様に、映画によって、特にその(特定の)街路に慣れていれば、ナレーション(叙述、語り、物語)はより極端で、よりいっそう高い表象(表現、代理)のレベルになりうる。ピッツバーグのカーネギー・インターナショナルでは、殆どの人々が私の蒸気の柱「Your natural denudation inverted(反転されたあなたのナチュラルな露出),1999年」を窓越しに見て、彼らのほんの僅かの人々だけが実際に外部からその作品を見るためにミュージアムの中庭の中に歩いていった。だから私はあなたに尋ねる、あなたはどのようにして内部から外部の蒸気のプロジェクトを見ることができるのか?。そう、それはとても簡単だ、あなたはガラスを通してまさに見る。しかしそのようにしながら、あなたはその音を聞かないし、蒸気のパイプからの圧力やサスペンス(不安)の感覚(知覚)や、ミュージアムの中庭の風や温度等々を持たない。そしてこれが私が言いたいことだが、この場合のミュージアムの中の、その窓は、いつも額縁の様であり、あなたはそのピクチャーのピクチャーのピクチャーのピクチャーを見るためにそのフレーム(額縁)を通して見るということだ。そして最も重要なことは、私達は私達自身を表象(表現、代理)のこれらのレベルの中に方向付ける(馴染ませる)ことができると私は信じている。私がこれについてモラライズ(道徳的に解釈する、道徳的観点から考察する)しようと努めてしないことを理解することはとても重要だ。それはロマンティシズムについてのものではないし、私の世代はいかにそれ自身をこのようなレベルの中に方向付ける(馴染ませる)かを本当に理解するための最初の世代であると私は実際に信じている。

→ガラスは一見開いたり繋げたりするように見えるが、実は分断するものである。その透明な有り様はまるで「生の権力」のようだ。「そのピクチャーのピクチャーのピクチャーのピクチャーを見るため」は、ボードリヤールの影響だろう。また、「モラライズ(道徳的に解釈する、道徳的観点から考察する)しようと努めてしない」というのは、ニーチェの影響だろう。(井戸)

Richard Sennett(リチャード・セネット)
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Jean Baudrillard(ジャン・ボードリヤール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%AB
Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
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Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
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Ferdinand de Saussure(フェルディナン・ド・ソシュール)
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Jacques Derrida(ジャック・デリダ)
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Roland Barthes(ロラン・バルト)
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Albert Einstein(アルベルト・アインシュタイン)
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Henri Bergson(アンリ・ベルクソン)
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Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)
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