The Conversation Series 13
Olafur Eliasson
Hans Ulrich Obrist
Verlag der Buchhandlung Walther Konig,Koln

Olafur Eliasson(オラファー・エリアソン)
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Hans Ulrich Obrist (ハンス=ウルリッヒ・オブリスト)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Ulrich_Obrist
You Tube(Hans Ulrich Obrist)
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P.9
Olafur Eliasson:私は鞄に風をつかまえたと確信した。私から10メートル離れたところの右側には満員のバスがあり、バスの中の人々はみんなその水を見つめていて、それから私を見て、そして水を見直した。だから私はアシスタントに言った。「本当にゆっくりと歩き去ろう、まるでこのことのすべてがとても普通であるかの様に。」それが私達がしたことだ、そして私はその鞄を、きちんと、ゴミ箱に捨てた、まるでストックホルムの中心街を緑に染めることが私の日々のお決まりの仕事の一部であるかの様に。ついに、私達はIASPISまで歩いてきた、そこは私が手を洗ったところだ。私が戻ってきたとき、私の心は本当に跳ね上がっていた、なぜならその流れ全体は緑で沢山の人々がそれを見るために立ち止まっていたからだ。それは驚くべきことだった。その物語は新聞の一面がその川を示し見出しは「緑に変えられた川」とされた次の日に終了した。いくらかの人々が警察を呼んだという小さな記事もあったが、しかしそれはその色は何か熱を出す工場から出たもので全然危険ではないと言っていた。このことに如何にマスコミが反応したかを見ることは興味深かった。スウェーデンはいつも人々を安心させる正しい答えを提供することができるという何かがある。最後に、私はその顔料は完全に無害でどんな環境汚染もなかったと付け加えなければならない。

Hans Ulrich Obrist:「Green river(緑の川)」は都市と見ることの行動を目に見えるようにすることについてのものだったと言うのが適性でしょうか?

Olafur Eliasson:そうだ。そしておそらくこのことは他の「Green river(緑の川)」も同様に扱っているものである。私達はみんな私達自身の心に私達自身の都市のピクチャー(像)や、まさに私のスタジオの窓の前のSpree川の水の様に、その都市の水のピクチャー(像)を持っていて、私のアイデア(考え)は私達がその水を、例えば、交通の様に、都市の中の動的な要素、あるいは静的なイメージとして見ているかどうかを探究することである。それは現実的なのか、あるいはそれは表現(想像、表象)なのか?

P.10
Hans Ulrich Obrist:あなたが述べていることとある本とAlighiero Boettiによる刺繍のプロジェクトとAnne-Marie Sauzeau-Boettiが「The Thousand Longest Rivers of the World(1976-82)」と呼んだもの、それは川を測定する可能性と不可能性についてのものの間には関係がある。これを心にとめて、私はあなたのプロジェクトがどの大きさで計画されどの程度あなたが起こりつつあることを予測することができたか不思議だった。「Green river(緑の川)」プロジェクトのどの部分が予測できないのか?

Alighiero Boetti
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http://en.wikipedia.org/wiki/Alighiero_Boetti

Olafur Eliasson:それはよい質問だ、なぜなら、例えば、もし雨が降っていたなら、その流れの中の水のレベルはより高くなっていただろうし、流れている水の量を調節するダムがあり、それは大荒れに影響力を持っている。私はダムを操作している人々に彼らが多少水を流しておくときを尋ねることができた、しかし私は他の方法で水が流れるあるいはまったく水が流れないだろうことをより恐れた。そしてそれから、勿論、私は如何に人々が反応するか、騒動がストックホルムのダウンタウンで突発しないかどうか、あるいは政府が即座に水辺地区を封鎖しないかどうか予測できなかった。しかし私の経験は私に大抵はとても小さなことしか起きないと示していた。私は以前に言った様に、そのような都市はあるイメージ以上のものであり、相互作用あるいは行動が実行される空間ではない。

P.12
Hans Ulrich Obrist:一日後の新聞を見て、私を圧倒したことはこのイメージは作者がいないということである。出来事の匿名性はあなたにとって重要ですか?

Olafur Eliasson:はい、この場合ではそうだ、というのも私は街路の人々の予想と記憶とより関心があるからだ。カナダでは、私は私が小さな機械を使って街路の上にチョークを置いたプロジェクトを作った[Proposal for a park,1997]。それはサッカーのフィールドにチョークの線を引く為の一種の機械で、私のねらいは地面に直接その新しいマップ(地図)を描くことによって都市のマップ(地図)をシフト(変化)させることだった。勿論そのチョークは風あるいは最初の雨で結局はまさに消えてしまうだろうが、しかしその出来事の組織者はこれがアートであったということを人に知らせる歩道に大きなサインを置き、だからそのピース(作品)は決して本当に手が加えられない。他の言葉で言えば、そのピース(作品)の人々の経験を制限することによって、つまり、文化的にそれをアートとしてコーディング(コード化、規約化、慣例化、符号化)することによって、それは形式化(正式なものと)された。その街路への潜在的な調整(調停、適応)よりもむしろ、私のチョークの線を絵画に変えた見ることのある方法は助長された。