Farmax
Excursions on Density
MVRDV
010 Publishers

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P.95
ランドスケープ
テキスト
1995年
Winy Maas

P.96
ランドスケープは広まっている(みんなの関心事である、まだ固まっていない)!。ランドスケープはいたるところである!「ランドスケープ」という言葉は最近の建築のディスコース(対話、論議)の中にそれだけ多く生気を与えてきたし、アメリカ人が「ファック」という言葉を使うよりもしばしば使われもしている。ランドスケープは建築とアーバニズム(都市生活、都市性、都市計画)が重要性を失いつつある時代に解答(解釈)として現われる。このプロセスは、ランドスケープ・アーキテクチャー(造園)のディシプリン(訓練、教育、規律、学問分野)が疑い(懐疑、不信、不確かさ)の時代に入ってきているという診断と同時に起こる(一致する)。エコロジカルな答えをともなった70年代の非運(破滅)とペシミズム(悲観)を打破し、「デザイン(設計)」をともなった80年代と90年代の経済的な麻薬(ごまかし、詐欺、誇大広告)を経験した後で、プロフェッション(専門的職業、知的職業)は今、それを取り巻く圧倒的な数の逆説的な要求(差し迫った必要)にどのように取り組むかという問いに直面している。「純粋」や「調和」や「崇高」のパラダイム(模範、典型)によって歴史的にうのみにされたプロフェッション(専門的職業、知的職業)の中の多文化的なものと多形(多様)なものにどのように形体を与えるのか(具体化するのか)。

P.97
ランドスケープ・アーキテクトは、田園生活的(牧歌的)さや、調和的さ、環境的優しさ、つまり真に「良く(善)」て崇高な目的、の体現として見られる。そしてそれに関して、人は彼はしばしば政治的な目的のために誤用(悪用)されると論じることができる。けれども、そのまさに純潔(天真爛漫、無知)が間違っているのであり、単純化しすぎたモラリズム(道徳主義)に浸されている。だからもしランドスケープが「終わりのないこと」や「畏怖」や「巨大さ」やパノラマ(光景)や遠く離れた眺望の中でのそれ自身の表出を求めるのであれば、それは実に「オーバーヴュー(概観、全体像)」と同義語であり、良い(善)も悪い(悪)も包含しながら、多様性と多元論(多元主義)についてのものである。それはこのアイデア(思考)とオピニオン(意見)と表現のフィールドを操作する可能性(潜在性)を持っている。単なる善(良さ)のための議論の代わりとして、この領域はパースペクティブ(見方、視点、眺望)へと差し込む(植え付ける、種を蒔く)ことの能力を持っている。このポジション(立ち位置)はそれに「モラル(道徳、倫理)」のサブスタンス(実質、実体、本質)を研究するよう強いる。

→ニーチェの影響だろう。(井戸)

Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7