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John Pawson
PHAIDON

John Pawson(ジョン・ポーソン)
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P.11
John Pawson:ディーター・ラムスの様な産業デザイナーは、ドイツの会社Braunによって作られた静かで目立たない家庭のプロダクトに責任があり、この論点に一つのパースペクティブ(見方、解釈)をもたらす。彼の態度は日本の茶道の大家のそれと同じではないが、彼らの精神性の感覚とともに、それはそれらとはっきり関係しているデザインへのアプローチをまだ示している。

→ジョン・ポーソンは以前ニーチェを引用していたが、ここでもパースペクティブ(見方、解釈)という影響をうかがわせる。(井戸)

Dieter Rams(ディーター・ラムス)
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P.12
John Pawson:彼曰く、「美的な質は、ニュアンス(微妙な差異)について、まさにミリメートルの部分についての何かについて、とても繊細な目盛りについて、あるいは一緒に作用している幾つかの異なった視覚的要素のハーモニー(調和)とバランスについて取り上げることを意味している。」ラムスにとって、素晴らしいデザイン(必然的に投資される)は可能な限り殆どデザインしないことの問いである。「私達のただ一つの機会はシンプリシティーへの回帰である」。私にとっては、最も重要な原則の一つは、重要なことを強調する為に、重要でないものを省くことである。今日のデザイナーの最も重要な(社会の為に、おそらく最も重要な)義務の一つは、私達が生きているカオスをきれいにする(整頓する、解く、解決する)ことを助けることだ。一体誰が消費者中心主義の雪崩れに面と向かって、ラムスの見方の妥当性を疑うことができようか?
快適で裕福な家庭が数百の所有物しか持っていなかったであろう19世紀と比較しても、私達はオブジェクト(もの)にどっぷり浸かっている(溺れている)。現代の同じような家庭の同等性は今おそらく数千の所有物を持っていることだろう。そして私達の祖父母が少なくとも一つの生涯で彼らのものを持続させたのに、私達はそれらが使い古したほんの僅かな徴候を示すやいなや私達のものを喜んで捨てる。今日の日本では、中古の家のアイデア(考え)でさえも、殆ど社会的に受け入れられない。確かにそれは私にシンプリシティーへの私の最初の好みを与えた所有物の圧倒的な重荷のセンス(感覚、意味)だった。
シンプリシティーの構成要素を見ることを越えて、私は積極的な方法(仕方)、つまり生命(生活)がシェーカー派のコミュニティーや、あるいは伝統的な日本の宿屋、イグルー、あるいはサモアのゲスト・ハウス、あるいはメッカへの巡礼の旅でのテントの中で生きている方法(仕方)の中でこれらの質を体現する日々の生活の本質を捉えようとこの本の中で試みた。その様な場所は、過剰と乱雑をとてもありえないものにしながら、オーダー(秩序)と規律のセンス(感覚、意味)を要求する。ある儀式はまたシンプリシティーの感覚を促進する様に思われる。入浴すること、つまり日本や、イスラムやローマ時代の浴場は、清潔さと水とシンプリシティーの質を結合する。

P.13
John Pawson:幾つかの文化は他のものより私を魅了する。つまり16世紀の日本や、古代エジプトや、古代ギリシャである。確かにもしあなたがすべての文化的なフォーム(形態、形式)をカバーした一つの社会を選ばなければならなかったならば、長い期間を越えて改良と洗練のプロセスのその包含(容認)とともに、16世紀の日本は殆ど理想的だろう。