Luis Fernandez-Galiano ed.
Herzog & de Meuron 1978-2007
Arquitectura Viva

Herzog & de Meuron(ヘルツォーグ・アンド・ド・ムロン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Herzog+%26+de+Meuron&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
You Tube(Herzog & de Meuron)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Herzog+%26+de+Meuron&search=%3F%3F

P.345
Herzog:アートは、私達がいるところを、私達が行くところを理解することについてのものであり、それら自身に、本質に、神にさえ近づくために個性を発揮できるようにするある種の啓蒙を通して、いくつかの点では伝統的な感覚の中で宗教(信仰)に取って代わりつつある。

Bruce Nauman(ブルース・ナウマン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Bruce+Nauman&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%B3
You Tube(Bruce Nauman)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Bruce+Nauman&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
Bruce Nauman ”A Cast of the Space Under My Chair” 1965ー68年
http://homelessmonalisa.darq.uc.pt/sampling/BNauman.RWhiteread/BruceNauman.RachelWhiteread.htm
→「椅子と椅子の下の空間」の実在物と空間の反転。(井戸)
Bruce Nauman “Green Light Corridor,”1970年
http://www.guggenheimcollection.org/site/artist_work_md_117_1.html
→「展示空間と廊下」の関係の反転。(井戸)
Bruce Nauman “Depression(くぼみ)”1977年
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&um=1&hl=ja&lr=&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Bruce+Nauman+Depression&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
→モニュメントの代表としてのピラミッドの反転。(井戸)

P.347
Herzog:私達の建築は如何に私達が一緒に生きていくかを理解する為の道具である。逆説的に、建築はコンテント(内容)やマテリアル(材料)あるいはフォーム(形)についてのものではない。それは知覚(認知、直覚)についてのものであり、人々に彼ら自身を理解させることについてのものであり、そしてこれは勿論人が人生の中で持ち得る最終的なゴール(目的)である。
もし、アートと建築が今より政治的な道具(手段)になったならば、それはそれらがリサーチのモーメント(重要性)よりもブランド化するモーメント(重要性)に対して近づいているからである。だがら、問題はこれらのことは共存できるか?ということである。ミュンヘンのスタジアムのような建物を取り上げてみると、それはコンペに基づいていて、その中のすべての単一のものごとが、始まりから本当に最後までやり直され、考え直されたプラダやシャウラーガーのような建物ほども、実際、殆どリサーチと芸術的な完成を必要としなかった。そのスタジアムはよりまっすぐなプロセスで、2つか3つのとても強いアイデアに基づいていて、あなたもまさにそれをする。勿論、これは、私達がこれまでに多くのリサーチをしきてきたからこそ可能なわけで、この種の建築、強さとパブリックは、コンテンポラリー(現代)の世界に働きかけるまさにそのものである。これは、それがより人々にとってのものであり、そしてより謙虚な(適度の)必要性に対してのものである他のモデルを発展させることが不可能であるということを意味してはいない。しかし、これは多くの事に依存している。誰がそれのためにお金を支払おうとするのか?国家(状態)がそれの世話ををしようとするのか?なぜなら、私はその国家(状態)をオルタナティブな(代替案の)ハウジングのプログラムや、よりエコロジカルな思考や、より社会的なプログラム・・・を発展させようとするであろうクライアントとして見ないからだ。反対に、私はその国家(状態)を結局裕福な人々を誘惑するプログラムのきっかけになると見ている。なぜならそれは経済的な発展を必要としているからだ。

中国とグローバル・マーケット
西洋世界は今その方向にまさにいまにも喜んで向かおうとしているかもしれない。しかし私は魅力的な、目立つ建物を求めている他の力を見る。例えば、北京は際立った都市で、彼らは彼らの中庭住宅やあなたも私も好きだろうすべてのものを破壊している。だからつまるところ、おそらく紫禁城(故宮)のみが古い町として残るだろう。だから異なったシナリオの中で異なったレッスン(課題、教訓)があり、問題はそこでのヨーロッパの立場(場所)とは何か?ということである。私はヨーロッパの態度でグローバル・マーケットに出て行き、そしてこれまでは私達はこの精神でそこに行くように頼まれてきた。たとえ中国でも彼らは私達のディテールのレベルを求めた。彼らはバーゼルの私達の建物に魅せられ、そしてそれが彼らに私達が中国でも何かを当然建てるにちがいないと信じさせた、たとえそれが可能かどうかは別の問題だとしても。もし私達が中国やたとえロシアでこれを行ないえたとしても、私達はそれはまだ制作物の1パーセントに満たないだろうことはわかっている。作品の99パーセントはコンピューターを使った若い建築家達を雇ったディベロッパー達によるすごいスピードで恐ろしい質をともなって生産されている。建築に対する空間も時間もお金もない。しかし彼らがメジャーな建築家達に与えたいほんのわずかなパーセンテージがあるかもしれないし、もしこれが事例であれば、勿論、私達は何かをすることができるが、それは私達が以前にした何かよりもエリート主義のものにさえなってしまうだろう。