Gerhard Richter
The Daily Practice of Painting
Writings 1962-1993
Thames & Hudson
Gerhard Richter(ゲルハルト・リヒター)
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http://en.wikipedia.org/wiki/Gerhard_Richter
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%92%E3%82%BF%E3%83%BC
美術家の言葉(ゲルハルト・リヒター)
http://www.b-sou.com/palw-Richter.htm
You Tube(Gerhard Richter)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Gerhard+Richter&search_type=&aq=-1&oq=
P.13
物事を表現するアートの意味、つまりスタイルや技術や表現されたオブジェクト、はアートの状況(環境)であり、まさにアーティストの個々の質(生活や能力や環境等々の方法)はアートの状況(環境)である。アートはそれらの大胆な抵抗(挑戦的態度)の中とまさに同じくらい十分に、それの制作の状況(環境)とのハーモニー(調和)の中で作られうる。それ自身の中でアートは決して目に見えないし定義できない、つまり目に見え模倣できるすべてのものはその状況(環境)であり、それはアートそれ自身の為に容易に間違われる(誤解される)。
アートの活動がある「イズム(主義)」に変わるやいなや、それはアートの活動であることが終わる。生き生きとさせることはフォーム(形態、形式)とサバイバル(生存)との日々の苦闘に交戦することである。(類似(類推)の方法によって、社会的な関心(関係、重要性)は、フォーム(形態、形式)と目下盗用と権利として見られているメソッド(方法)である。しかしそれがそれ自身を社会主義、オーダー(秩序)とドグマ(教義)へと持ち上げるところでは、それはその最善の最も真実な質を失い犯罪の方向に向かうかもしれない。)
私は「マテリアリズム(実物主義、物質主義)」から逃れる為にここに来たのではない、ここではその優位ははるかにずっと全体的で意識のないものである。私は社会主義者の犯罪的な「理想主義」から逃げる為にやってきた。(注:1961年にリヒターは東ドイツを去りデュッセルドルフへ移住した。)
絵画は思考とは関係をもたない、なぜなら絵画において思考は絵画であるからだ。思考は言葉、記録を保つこと、であり、前後の違いを示して起こらなければならない。アインシュタインは彼が計算していたときに考えなかった、つまり彼は計算した、それ以前に進行していたものとの相互作用の中で次の問いを作り出しながら、まるで絵画においてひとつのフォーム(形態、形式)が他のフォーム(形態、形式)等々への応答であるかのように。
アートはコミュニティー(社会、共有、共通性)を確立するのに奉仕する。それは私達を他者と繋げ、私達を私達の周りの物事に繋げる、共有されたヴィジョン(見方)と努力の中で。
私の関心は決してアートではないが、しかしいつもアートがそれの為に使われうるものである。
P.15
絶対的な正義や真実としての物事は存在しない。私達はいつも作りものの先導的な「人間的な」真実を追跡する。私達は他の真実を排除する真実を判断し作る。アートはこの真実のマニュファクチュア(作ること)の中で形をつくる役割を担う。