El croquis 80 daniel libeskind 1987-1996

Daniel Libeskind(ダニエル・リベスキンド)
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http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Libeskind
You Tube(Daniel Libeskind)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Daniel+Libeskind&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
Jewish Museum(ユダヤ博物館)
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P.17
Daniel Libeskind:私は人がその壁(万里の長城)の上にのぼった時、何を見ることができるのか想像することができなかった。人はそれ自身を一続きの完全に不合理なテキストに還元している壁を見る。そして人は、山を登って行く分岐する物語のフィールドとして、一つの壁が突然何処にでも成り得るということがどのように可能なのか理解していない。それは幾何学的ではない、何故ならそれはそれ自身の上に二重(二倍)にし、三重(三倍)にし、未来の歴史としてその山々の戦略上の場所から戻って来た(思い出された)単一の壁だからだ。私はこの経験が、その境界をテキストとして見ていてその壁がただそこにあるもの(物体)だけではないと悟っていたであろう如何なるタタール人の侵略者にとっても、如何に恐ろしいものだったか見ることができる。それは境界(国境地方、辺境)のその空間の中で侵略者達を計略にかけた皇帝の物語の多様性(複合性)だった。これは私にものすごい影響を与えた経験だった、何故なら私は私が以前そこに、カフカと一緒に、以前中国の万里の長城の上にいたことがあると感じたからだ。
彼も、また、最大の脅威の線が、グラウンド(地面)からたった約2cmあるいは3cmの線だったと感じた、つまりそれは完全に歩行には印象的でない様に見え、それ故につまずきの線や転倒の線である、線である。

Donald L.Bates:人は「Potsdamer Platz(ポツダム広場)」や「Alexanderplatz(アレクサンダー広場)」の為のあなたのプロジェクトを見ることができ、その両方ともベルリンにあり、そこでは壁としての線と軸としての線の問いが基本だった。スペシフィックな(特定の)建物に対立するものとして、都市の状況の中でどんな機能あるいは役割が、そしてどんな重要性が線から生じてきますか?urban(都市)のレベルで、city(都市)のレベルで基本的に異なっている何かがありますか?

Daniel Libeskind:私は些細な線は二つの人々を持ち、些細な線はどんな方向でももうひとりの人の道を歩いてまねしている誰か他の人も持ち、都市がそれら自身の構造の中で利用できるようにしている経験を人は持つと思う。ベルリンにいてすべての破壊とすべての歴史の喪失の後に人がそれでもなお歩みが続いて行く同じ場所を見つけられるのかを見ることよりもより神秘主義的で気分を引き立たせることができるのは何か?それはおそらく亡霊かあるいはもはやそこにはいない人々によって為されるだろうが、人はその道の不変性(永続性)を感じることができる。たとえ彼らが彼らの死へ向かって歩いていた、あるいは彼らがどこか他の場所の中へ向かって歩いて出て行ったとしても、本当に何も残っていない場所でそれでもなお人々がかつて歩いていた場所を人がまだ見つけることができることを見て私はいつも驚かされる。人はそれが何処かを見つけることができ、幾らか目に見えないもののセンス(感覚、意味)でそれは単純に痕跡ではないが、実は建築的人工物あるいは都市の経験である。都市は興味深い、何故ならそれらはいつも幾らか最終的な(本源的な)目的、知られないままに残されている幾らかの目的に向かうその機能的な必要性を越えて、その果たすべき仕事を成し遂げるという共同体の目的を強化増大する果たすべき仕事をいつも扱うからだ。殆どの都市計画は不合理な特徴を持ち、不合理な空間を開く。それらはそれらが描かれ設けられたまさにその目的から切り離されている。
だから地図はそれ自身の中で本当に何を意味しているのか?人がそうだったかもしれないしまだなおそうかもしれないこれらの経験にそれを接続しなければ、それは完全に気まぐれな(恣意的な)配列(星座、布置)だ。人はそれらを呼び覚まさなければならないし、もし人がまさに線の官僚主義的なコントロールではなく、意味を持たず、再び地図の上にオブジェクト化(対象化、具体化)されることが今までできなかったそれを掴むことに興味があったならば都市計画の方法でそれらを呼び覚まさなければならないだろう。

Franz Kafka(フランツ・カフカ)
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→建築の境界は、言葉の「差異のシステムの中の差異化(境界付け)」の力と似ている。建築の境界は建築の言語、例えばリビングやダイニング、庭、等々、微細な差異の連続ではなく明確な差異化(境界付け)の力(権力)に拠っていて、それはまたその時代や地域の言葉遣い、集団的無意識に規定されている。それは「当り前のこと」の様に思われているが、形而上的な「真実」などではなく、歴史的に形成された透明な力(権力)だ。それに対して如何に「不在の現前」を現象させるか?来るべきものの到来を遅らせ続けられるか?如何に形而上学的には観念を、形而下的には感覚を、開いたままにしておけるか?(井戸)

Ferdinand de Saussure(フェルディナン・ド・ソシュール)
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Jacques Derrida(ジャック・デリダ)
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Roland Barthes(ロラン・バルト)
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Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
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Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
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Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)
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Pierre-Félix Guattari(ピエール=フェリックス・ガタリ)
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