El croquis 80 daniel libeskind 1987-1996

Daniel Libeskind(ダニエル・リベスキンド)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Daniel+Libeskind&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
http://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_Libeskind
You Tube(Daniel Libeskind)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Daniel+Libeskind&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.7
D.L.:実際にあなたは線の真の機能を引き合いに出している。線は永久の現象であり、神秘の中に組み込まれたものを持っている。幾何学的にさえ、二つの地点間の最も短い距離としての線の考えはそれ自身大いに神秘的で形而上学的概念である。例えばホルヘ・ルイス ボルヘスは「New Refutations of Time(新しい時間の論駁)」(それの中ではそれ自身は矛盾しているが)の中で時間について議論している。彼はA地点とB地点の間の接近について話す。A地点とB地点の間であなたは別の地点である、C地点を差し込むことができる。線の全体的な問題は無限性と線の起源を捉まえることの不可能性に開かれている。そういう感覚(意味)では、確かに建築においては、新しい底知れない線が形作られるという可能性がいつもある。たとえその線が線の歴史の一部として現れなく、スクリーンの上の点や湾曲あるいは斜めの参照としてのみ現れたとしても、それは「線」になる長い道程の中にあるだろう。

Jorge Luis Borges(ホルヘ・ルイス ボルヘス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%98%E3%82%B9

P.9
D.L. :そのような概念の非存在あるいは不可能な存在の痕跡は、建築的にはそれ自身の中の真のエンゲージメント(約束、契約、関与、戦闘)である。建築の中の異なった時代が線の崩壊を裂くことを通してそれら自身を如何に変形させてきたかについて人は話すことができた。それにもかかわらず、私達はまだこれらの裂け目を通して歴史を伴った「線の間」や不可避的に起こっているどんな事、運命や宿命も伴った「線の間」に居続けていると考えている。それは興味深い問いだ。なぜならそれはとても共通の(普通の)言葉、一般的な言葉だからだ。その上に線は断絶の線と等しい。それは支持された建築の夢あるいはその反対を持つ形而上学の概念か?

D.B.:ベルリン・ミュージアムでは、ダイアグラム的にあるいはおそらく図像的に、それとそのタイトル「線の間」とともに、これはまったく簡明に始められた。あなたは二つの線を創り出した。一つの線は連続的でなお曲げられ、ねじられ、角張ったもので、もう一つの線は真直ぐで直行している上にばらばらにされ、分割され、裂かれたものだ。その線はイコン(像、象徴、記号)ではない。それは実際ミュージアムや特にその歴史のとても複雑で複合的な建築のプログラミングだ。

D.L.:あなたが言及しているそれらの線もまた凝視の線であり、意図性の線であり、欲望の線である。そういう感覚(意味)でバルリン・ミュージアムにおける動きの線は建築の性質や動的で組織的な質さえ持つ。より重要なことにテキストやドローイングを通り抜けスペース(空間)を通り抜ける動きの建築を越えたコネクション(結合、接続、関係)がある。スペース(空間)は見ることの一部であり、熟視の一部であり、あなたがかつてそこに来る以前にそこにあるものの一部である。
「線の間」はまさに「文字通り」である。それは暗喩ではない。なぜなら人は(線の中で)動くことができない動きを正確に見つけるからだ。断絶された真直ぐな線も、永久にそれと絡み合わされた曲がりくねった線も循環する通路ではない。コンペのテキストは演奏する為のラインを持たなかった楽譜の五線の間に文字通りしるされた。私はそれは線のまさに文字通りな質と人を愕然とさせる質の間の緊張であり、それは経験の中で現れるフィクション(虚構)とレトリック(物言い)を支えるものであると考える。言語と物事について話すことでさえも、ある痕跡が忘れられないことや思考の道程に依拠しているのだ。