Hans Ulrich Obrist
Interviews
Volume 1
CHARTA

Constant Nieuwenhuys(コンスタン・ニウヴェンホイス)
http://images.google.co.jp/images?svnum=10&um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Constant+Nieuwenhuys&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
http://en.wikipedia.org/wiki/Constant_Nieuwenhuys
New Babylon(ニュー・バビロン)
http://www.digischool.nl/ckv1/studiew/destad/constant/babylon.htm
http://fr.wikipedia.org/wiki/New_Babylon
Hans Ulrich Obrist (ハンス=ウルリッヒ・オブリスト)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Ulrich_Obrist
You Tube(Hans Ulrich Obrist)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Hans+Ulrich+Obrist&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
P.167
Hans Ulrich Obrist:1958年と1960年の間、あなたはインターナショナル・シチュアシオニストのメンバーだったし、あなたが一連のテキストとドローイングを通して「ニュー・バビロン」プロジェクトを始めたことは雑誌I.S.(Internationale Situationniste)のまさに最初の論点の一つだった。現に建物のアイデア(考え)は既に、最初から存在していたのか?
Constant:私は決してそれらを実行するために事をしたことはなかった。私の都市計画への(最初のうちは建築で、都市計画に引き継がれた)興味は、アーティストとしてのものだった。
P.168
Constant:ドゥボールと私はテキストの執筆を引き受け、それはその後アムステルダム宣言(I.S.,No.2,1958年)として知られる様になり、私達が統一的都市計画の11のポイントの定義を規定するのを探したものだった。私達のアムステルダム宣言には「ニューバビロン」の言及はまだなかった。アムステルダム宣言の11のポイントはミュンヘンでのシチュアシオニスト会議(1958年)で議論され、満場一致で受け入れられた。私はそれからそれについて考え始めた、アーティストとして、画家として、彫刻家として、私はイラストレーションをしたり、プラン(平面図)を描き上げたり、都市計画家の様に模型や描写を作ったりし始めることができた。そして私が私の最初の縮尺模型やコンストラクション(構築物)をし始めたのはその時であり、I.S.の(思うに)2号3号と4号に一連の写真とテキストを通して提示された。私は(Unitary Urbanism(統一的都市計画)と呼ばれた)事務所をアムステルダムに数人の建築家達と開き、彼らは(私には未知で、資金不足の為に)教会を建てる依頼を不幸にも引き受け、オランダの建築雑誌「Forum」に幾つかの模型の写真を載せ出版した。ドゥボールは、彼の気質として、
それについて罪を看破し、直ぐに彼らを追放した。自分としては、私は彼らが行なったことに何の問題もなかった。それは建築のファーム(会社)だった、つまり彼らはシチュアシオニストの論点に全く精通していなかったし、その建物、教会がInternationale Situationniste(インターナショナル・シチュアシオニスト)の一部であるものに反対(矛盾)するものであるという最低限のアイデア(考え)も持ってなかったということだ。[笑いながら]
Hans Ulrich Obrist:それではドゥボールとあなた自身の仲たがいはどのように起こったのですか?私はその意見の相違はあなたが「ニューバビロン」を中心としたあなたのリサーチがあなたあるいはI.S.によって決して成し遂げられないだろう世界を形を前もって示していて、あなたの作品は完成(改善)しつつある社会を打倒する(それは勿論ドゥボールのとてもぼんやりとした目的だが)よりもむしろ完成(改善)しつつある社会と関係があるとあなたが論じた事実と関係があると読んだ。
Constant:私がI.S.を去ったのは結局他の理由の為だった。私は長い間、その時から25年間絵画をしてきた。しかしその当時私はとても非絵画的だった。私はもはやこれらのneo-CoBrA(ネオコブラ)の画家達に取り囲まれたくはなかった。そして私はその当時それは私達の間にまさに作用しないだろうと考えた。今となっては私は違うように考える、何故なら私は再び画家になったからだ。しかし私はまだシチュアシオニストの運動と絵画は一緒に調和しないと考えている。しかしながら、ドゥボールと私は、統一的都市計画が社会的な革命、同時にあるいは事前に起こるだろう革命、しかしとにかく革命なしでは成し遂げられないだろうことは完全に一致している。誰もそれを起こすことについて考えなかった。
International Situationist
http://www.cddc.vt.edu/sionline/
Guy Debord(ギー・ドゥボール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB