Yves Brunier
Landscape Architect
Birkhauser
Yves Brunier Landscape
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P.89
Odile Fillion:これらのプロジェクトのイヴ・ブリュニエのインプット(意見)を見分けることは可能ですか?
P.90
Rem Koolhaas:Bijlmermeerのプロジェクトか、またはMelun- Senartのプロジェクトか、それらはいつもグループでのプロジェクトだった。OMAは継続しているワークショップの様に活動しているし、彼のドローイングを通すことを除いては、彼がどのようにこれらのプロジェクトにうまく影響を与えていたのかを知ることは難しい。私は彼がMelun- Senartのマケット(準備スケッチ、模型)に取り組んでいるのを見たのを憶えている。彼は、まるで10秒の食事の様に凄い速さで、何かデリシャスな(おいしそうな、爽快な、非常に楽しい)ものを準備している様に見えた。まるで事物を一緒にするというまさにこの決定はその決意(結論)のロジック(論理)を生み出したかの様に、彼はテーブルの上にあったすべてのものを取り、それをマケット(準備スケッチ、模型)に組み入れた。
Odile Fillion:彼がまさに「ランドスケープ・アーキテクト」であることを最終的に受け入れたのはいつですか?
Rem Koolhaas:OMAにいた後、彼は彼自身の建築のスタディー(研究)を追求(遂行)するためにパリに戻った。それから彼は私達に会いに戻ってきた。その時までに、彼の病気は既に症状が出ていて、私は彼にきっぱりと建築をやめるように話した。イヴは本当に非凡な人で、典型的な1980年代の人で、強烈なプロの(職業的)なプレッシャーの中でとても若い世代に含まれていて…、エイズだった。彼の未来はランドスケープだったし、それが時代の重要性だった。その時からすべてのことが彼にとってランドスケープになった。それは一種の恋愛事件(情事、夢中になること)の様だったが、彼は3年か4年後にそれをただ認めた。これはHarlemmermeerのランドスケープ・アーキテクチャーの2つのタワーの間のコラージュでとても明白に成功し、そこでは植物(草木)とはもはや何も関係を持たなかった。それはオブジェクト(もの、客体)の間の、温室とインフラストラクチャーの間の残余の状態だった。自然がそれ自身で十分でない様に、ランドスケープはすべての種類の帯に溶け込んだ。しかしおそらくこの姿勢は彼の病気と関係していたのだろうが、それはただ彼が自然に対して持っていたかも知れない敬意を減少させることに供した。
Rem Koolhaas(レム・コールハース)
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