Archi Review
第7回 VPRO MVRDV
2003年9月13日 井戸健治
1、VPRO
壁の不在→ドミノシステムのイメージ(本質は違うが)を建築化
エデュカトリアムと違い壁が消失 (コールハースにとって壁は重要な要素、ミースと同様に空間に対する素材のコラージュとして)
無限に続く建築的ランドスケープの切断面を見せる。←OMA「パリ国会図書館案」
スロープ/斜床→ジュシュー・キャンパスの2つの図書館案(ソルボンヌ図書館)→オランダ大使館/人智学センター
 現代アートの「アプロプリエーション(盗用)」
 マイク・ビドロ「これはピカソではない」とは違う。
 本物が確定(実現)していない上、本物がどちらか不明。
エデュカトリアムは「放っておくところ」と「キッチュ ギリギリのグロテスク、工業製品のもつ色気」的仕上げが施されているところとのバランス、
VPROは「素地仕上げなしのそのまま」(現場用照明等)に対して、伝統的に高価なものの象徴(シャンデリアやペルシャジュータン)を並置
色ガラス35種類のガラス
←色ガラスはコルビジュエも使うがむしろミース「バルセロナ・パビリオン」的
駐車場のライティング照明の色→ダン・フレビン
VPROの網戸のランダム性←コルビジュエ「ラ・トゥーレット」クセナキスの窓のパターン
食堂の屋根形状←コルビジュエ「ラ・トゥーレット」中庭十字回廊の屋根形状
2、フォルムの操作(コルビジュエのユニテの手の操作を写した模型写真から始まるが)
「スタッキング」→農業会館計画案←現代アート リチャード・ウイルソン「A Fresh Bunch of Flowers」1992年
「スラブとボックス」→VPROスラブにかつての13のヴィラをボックスにかえてスラブに配置
「カラーバリエーション」→まつだい雪国農耕文化センター
「ワンオブジェクト・ワンマテリアル(ワンカラー)」→ハーゲン・エイランド
「ランダム」「レゴブロック」「テトリス」→ベルリン・ヴォイド
「TVゲームの横スクロール」→VPRO、2世帯住宅
「水平に倒したテトリス+屋根が全てトップライト」→パティオ・エイランド
「アーティフィカル(人造の、不自然な、偽りの、気取った)ランドスケープ」
→VPRO、ハノーバー万博2000オランダ館←サイト1981年「高層化住宅台地」
元々は、コールハース「パリ国立図書館案」において、理論なんかよりも、単純に建築の規模(ビッグネス)や構成そのものが、建築に圧倒的な魅力を生じさせうる。
→「フォルムと構成と操作」の魅力の再認識
→フォルムの操作のタイポロジー化 多様化とそのストックの共有
→オランダ・フランス・スペイン若手建築家集団にて、その「フォルムの操作」が共通のストックとされ繰り出される。出版と共犯して  「サンプリング」→「カットアップ」→「リミックス」
3、モダニズム/ベンチューリ/コールハース/MVRDV
ベンチューリは、インターナショナルスタイル(狭義のモダニズム建築)に対して建築形態(主に表層)の矛盾や多様性やそれが意味を持つことの重要性を再認。
コールハースは、狭義のポストモダン(歴史的引用による建築形態、歴史の引用によるその歴史の脱構築(本当に脱構築されていたかは疑問)ではなく「消費され尽くした近代建築(かつてのヒーロー)の建築言語」を編集、コラージュ(トリミング)し、現代素材(チープな素材)との併置によって、ポップアートになぞってその権威の脱構築(ヒーローの言語も現代素材と同じ単なる素材とみなす)。
ポップアート←「モダニズム芸術(平面性という自己規定の極限)」崇高な(雰囲気の)芸術に対し日常を持ち込むことにより、日常から離れた権威の無効化
コールハース←「モダニズム(主にコルビジュエ・ミース)建築」崇高な(イデオロギー的・時代精神的)建築(光、空間、マッス、装飾付加の禁止、機能主義)に対し現実社会(日常)を持ち込むことによるモダニズム建築の権威の無効化(ダーティー・リアリズム)
MVRDVは一見「消費されつくされた近代建築の建築言語」(操作方法重視)を「サンプリング」し単純化しコレクションし、作品毎にその手の内からアクションが選ばれ繰り出される。コールハースとはモダニズムの巨匠との距離感が違う。父権に対する子の反抗から、単なるサンプリング・ソースへ
「変換操作」、「戦略上のデータ処理」
→基準や規制や条件を、その極限の利用あるいは解釈すること(データ化し操作すること)によって起こる「普通じゃない・突然変異的」風景を作り出す。(まじめに条件や現代の都市問題を分析し処理するとこんな風景ができてしまいますという提示)→意図的に操作した上で日常(基準や規制や条件)へのアイロニー
現代アートの「シミュレーション」との比較
→シンディー・シャーマン 日常のメディア・イメージによる女性の主体の形成の表現
無意識にすりこまれている(操作されている)日常のシミュレーションの手法による意識化
サブカルチャー的→MVRDV「3Dシティー」←バッドマンのゴッサムシティーに近似
反「美意識至上主義」→建築家の美的基準に依拠しない。判断基準は「建築家の美的基準」から「普通じゃないもの」へ。しかし、実際は建築家ののがれられない性「普通じゃないもの・誰もしていないもの」を選ぶ美意識があるが・・・
「わかりやすさ」の戦略←「狭義のポストモダン」(メタファー)や脱構築(デコン)のような難解な言葉による建築から、「わかりやすさ」を戦略に。
つまり、理論(理論の為の理論)による建築、表層に意味を持たせる建築(ポストヒストリカル、所謂ポストモダン建築つまり歴史から引用してきた建築言語で表層を構成し歴史を無効にする建築を含む)、「狭義の作家性」(作家性がない匿名性などはないが)に準拠する建築(私的な判断による美を基準とする建築)に対して、建築言語それ自体の過剰使用(オーバードライブ)、あくまでルール内の極限使用による異常な世界の提示。