今日はやっとデュシャン展に行ってきました。最終日でかなりの人・・・。
予想通りデュシャンの歴史が語られ、歴史的意義がわかるような展示。
若い兄ちゃんが連れの女の子にデュシャンのウンチクを語っている。
どこからチケットがまわって来たのかわからんオッサンオバチャンまで。別にオッサンオバチャンにゲンナリした分けではありません。ある程度の知識が必要なことだと思うんですが、単にウィットの強度が感じれるかということに疑問を抱いたのです。
ウィットの強度、つまりアニメの一休さんです。頓智や機知で時の権力(社会)に意義申し立てをしてその機知でスキャンダルを起こし危機を打開しその権力(社会)の認識を変えていくということ。(ここで一休さんという言葉に貴賎の賎を感じたのならば十分、この美術館のキュレーターになれるでしょう。)
デュシャンが~だから偉いとか聞くとああ~狭義の教養主義ひいては狭義のエリート主義だな~とウンザリする。エリート主義はもちろん僕にもあるんですが、ナンセンスを楽しめるセンスはあるかということ。オバチャンでもこのナンセンスに心の中でニヤリとしていればウンチクたれている事知りクンよりずっとイケテルと思う。
デュシャンのウィットという駒さばきにウィットのないこの展覧会の駒さばきにゲンナリ。入り口の大きなカラス(作家のんですか?)はウィットに対して日本的おやじギャグという顔をおおいたくなるような感じ。
最後のデュシャン以降のアーティストそれぞれは同じ盤の上で駒をさばいていると感じましたが・・・
それにしても建物だが、外観はもうどうでもいいんだが、内部も酷い。物語がない。「物語がない」という物語もない。いろいろな制約やコストなどを外的な偶然性としてなお空間の行間に意志の記号を潜ましている気配もない。つまり考えていないんじゃないかと思う。地下の空間は地下であることの十分なキッカケがある。郊外の大形店舗の内部を仕切ったような雰囲気。光に対する詩情もない。システムもなければウィットもアイロニーもパロディーもない。
cafe sangmi 2002/2003