昨夜の話は、「理性」をもった「主体」が「デザイン(計画)」する建築(つまりあるデザインがあらかじめ想定された上でそのデザインを完成させる)という近代の(現在の)盲目的に信じ込まれている構造(そういう意味では現在も中世のキリスト教世界のようだが)の代わりに、アルゴリズムによってその結果がどのようにも転がり得る(結果が変り得る)という、アイゼンマンの「恣意性」の建築や、建築の「自立性」を思い浮かべるようなものだったが、ニーチェやドゥルーズをベースにした「理性」の信仰に対する生身の人間の触覚や感覚(環境やモノとの動物としての対峙)の復権や流動的で(絶えず変化し)それぞれの要素がそれぞれの要素に影響し合うデザイン(計画、決定)を言っていたようだ。それだけであれば、荒川修作+マドリン・ギンズの「建築する身体」等で提示されているように、この肉体が傾いた床やデコボコや傾いた壁に接触することによって、現在の隠れた絶対的権力である「理性」教を突き抜けて子供の頃にまだ持っていたような(動物的な)「生身の身体の感覚」を回復できるということだけれども、その構成方法にアルゴリズムを絡ませ、その根拠を自然に求めるという感じだった。樹木はそのDNAに基本的な変態関数を持ちそれの変数が変ることによって(環境に影響され)全体としての樹木の形態は変る。アルゴリズム、フラクタル、複雑系を建築に使うとこんな未来がありますよという感じだった。
いずれにしても、今僕が書いたように中途半端な知識しかない者がよくするように難しい言葉を並べるようなことはせず、こどもやおばあさんまでわかるような話し方だったので好感が持てた。
Cecil Balmond(セシル・バルモンド)
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