Richard Serra:Writings Interviews
The University of Chicago Press
Chicago and London

Richard Serra(リチャード・セラ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Richard+Serra&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
YouTube(Richard Serra)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Richard+Serra&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
美術家の言葉(リチャード・セラ)
http://www.b-sou.com/palw-Serra.htm

Peter Eisenman(ピーター・アイゼンマン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&q=Peter+Eisenman&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
YouTube(Peter Eisenman)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Peter+Eisenman&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

Holocaust Memorial Berlin(ホロコースト・メモリアル、ベルリン)
→ピーター・アイゼンマンとリチャード・セラのコラボレーション。(井戸)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Holocaust+Memorial+Berlin&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
You Tube(Holocaust Memorial Berlin)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Holocaust+Memorial+Berlin%0D%0A+&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.145
RS:あなたは一つのコンテキストの中である作品を建てることはできないし、他のコンテキストにおいて行き当たりばったりでそれを設置することはできないし、残存しているものと関係したそのスケール(規模)を除外することもできない。スケール(規模)はコンテキストに依存している。一つの場所から他の場所へ動かされた移動可能なオブジェクト(客体)は殆どこの理由によって失敗する。

P.146
RS:ヘンリー・ムーアの作品はこのサイトに適合された愚行の最も目立つ例である。かの有名な前面の芝生に置かれた鉄の鹿は、よりコンテキスチュアルな重要性を持っている。建築家達は同じようなスタジオ・シンドローム(症候群)に病んでいる。彼らは彼らのオフィスで案を出し、そのランドスケープにテラス(一段高くなった平坦地)を置き、彼らの建物をその切り開かれたサイトに設置する。結果として、スタジオでデザイン(計画)され、それから敷地に適合された建物は、膨れ過ぎた(過大なうぬぼれの)厚紙でできた模型のように見える。例外はある。ル・コルビジュエやライトやカーンやゲーリーの作品等・・・。

→ヘンリー・ムーアといえばコルベと同様にミースと親交のあった(ミースの建築に設置された)彫刻家でイギリスのアートに影響を与えた人だったと思う。確かブルース・ナウマンやアンソニー・ゴームリーのインタビューで出てきたと思う。(井戸)

Henry Moore(ヘンリー・ムーア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Henry+Moore&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
Le Corbusier(ル・コルビジュエ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&q=Le+Corbusier&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
Frank Lloyd Wright(フランク・ロイド・ライト)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Frank+Lloyd+Wright&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
Louis Kahn(ルイス・カーン)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Louis+Kahn&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
Frank Gehry(フランク・ゲーリー)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=UTF-8&sa=X&oi=spell&resnum=0&ct=result&cd=1&q=Frank+Gehry&spell=1

PE:ロザリンド・クラウスはそれについて、例えばロバート・モリスやディビット・スミスのような最近の彫刻の中に、オブジェクト(客体)に対する観察者の変化させられた関係があると書いてきた。なぜなら観察者のポジション(位置)の中にある変化は、彫刻的なオブジェクト(客体)の中にある変化を提供し、観察者の空間はそのオブジェクト(客体)の空間の一部になるからである。観察者とそのオブジェクト(客体)は同じ空間を占有するものとして見られる。

Rosalind Krauss(ロザリンド・クラウス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
Robert Morris(ロバート・モリス)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&q=Robert+Morris&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
David Smith(ディビッド・スミス)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=David+Smith&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5

RS:同じ振る舞いをする空間の中に観察者と彫刻が同時に存在することによる知覚のコンテント(内容、意義、対象)を変化させることは、ムーヴメント(動き)や時間や予感等々を含意する。これはディビッド・スミスあるいはロバート・モリスから始まったのではない。この概念はTirgu Jiu(おそらく地名)のブランクーシによって発展させられたものであり、20世紀を通して継続されたものである。
彫刻が非制度の領域に入る時、建築としての同じ空間や場所を占有するギャラリーあるいは美術館を彫刻が離れる時、彫刻が彫刻的な必然性に関して空間や場所を再定義する時、建築家達はうるさがる(いらだつ、不快になる)。彼らの空間の概念が変化させられるばかりでなく、殆どの部分の為にそれは批評される(批判される)。批評は建築的スケール(規模)や手法、マテリアル、進行(手順、処置)が使用されている時にのみ有効になりうる。比較(対照、類似)は引き起こ(誘発)される。すべての言語はその言語が言われえるところに批評的なものは何もない構造を持っている。言語を批評するためには、一番目の言語の構造を扱うが新しい構造をもたない二番目の言語がなければならない。

Constantin Brancusi(コンスタンティン・ブランクーシ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%82%B7
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=UTF-8&q=Constantin+Brancusi&lr=&um=1&sa=N&tab=wi

PE:あなたはニュートラルな(中立な)背景であるべき建築を求めている。建築が壁を取り去り基壇を取り去った時、あなたはそれを分離した(別々の)オブジェクト(客体)として残し、そのニュートラリティー(中性)を維持したいと思うように思える。建築がフィギュラル(図像的)でコンテキスチュアル(文脈的)両方になる時、建築はあなたを悩ます、なぜなら建築は機能する(作用する)ためにちっぽけな部屋と一緒の彫刻家から離れるからである。

→このニュートラリティー(中性)とは古い学校や工場をギャラリーに改修したときに生じるあの「感覚」のことか?そしてそれはデザイン(計画)されることによる「あざとさ」とは対照的なものか?
例えば、ヘルツォーグ(Herzog & de Meuron)は意図的にアンビギュイティー(曖昧性)を計画に採り入れる、アイゼンマンは恣意性(任意性)を導入する。巷に溢れる(うわベだけの)ミニマルなデザインの様に、ミニマルな形態は容易にある「力」を持つ。それ故に扱うのが危険で、直ぐにこの「あざとさ」が生じてしまう。コールハースはこのミニマルなデザインを究極の装飾主義だと切り捨てた。ミース・ファン・デル・ローエはこの危険を承知していたのか、おそらく直感的に気付いていたんだと思うが、巧にアンビギュイティー(曖昧性)を抱えている。つまりそのアンビギュイティー(曖昧性)は結果としてそうなったものではなくて、巷のミニマルの様なうわべで直ぐに伝達されてしまう安易な割に強い「力」を越えた「世界」をほのめかすものでなくてはならない。それがあるかないかは直ぐにはわからないが、その違いは一目で直感的になんとなく感じるものだと思う。(井戸)

Mies van der Rohe(ミース・ファン・デル・ローエ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Mies+van+der+Rohe&lr=&um=1&sa=N&tab=wi