Holocaust Memorial Berlin
Eisenman Architects
Lars Muller Publishers

Peter Eisenman(ピーター・アイゼンマン)
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Holocaust Memorial Berlin
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You Tube(Holocaust Memorial Berlin)
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P.67
これはデータ(与件)レファレンス(参照、委託)としてグラウンド(地面、地表)の否定を通して成し遂げられる。その代わりとして、柱(標柱、台座)の頂部と底部によって示される二つのトポロジカルで(地形学的で)波打つサーフェス(表面)がある。これらは周囲の街路のコンテキストのデータと柱(標柱、台座)の上のフィールドに入る直立した主体についての不安定な領域を境界付け、グラウンド(地面、地表)が傾斜するに従って、彼らを内に包み込む。包み込みと囲い込みのこの必然性(必要性)は、今は違った方法で表現され、唯一建築的であると理解され得る。
学問分野(規律)への問いは、この記念碑、ヨーロッパの殺されたユダヤ人の意図された主題の場合において特に直接的に関連する。建築は普通は機能し、普通は意味を提供し、おそらく美学的な面においてもそうする。ドイツの1930年代の国家社会党(ナチス)は明らかに政治を美的にした。再び、データとしてグラウンド(地面、地表)の否定は、ナチのboden「土」とそれに伴う他者としてのユダヤ人の考えの政治化された唯美主義に立ち向かっている。それじゃ、もし美的にすることが美のいくつかのフォーム(形)を通して普通のものを超越するためのいくらかの方法の中で意味を持つのであれば、ヒューマニティー(人間、人間性)に逆らって彼らの犯罪を美的にすることがどうして可能なのだろうか?同時にこの犯罪の極悪非道さに意味を与えることがどうして可能なのか?あるいは、アドルノのよく引用される表明の中で「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮な(残酷な)ことだ」と。

Theodor Adorno(テオドール・アドルノ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E

P.68
すべての存在する記念碑のタイポロジーをかき乱し追い払うこれらの挑戦に立ち向かい、どのように人はこのプロジェクトを評価するのだろうか?それが見える方法によって、それが意味するものによって、あるいは単にその存在の経験によってなのか?
その主題の為に、街路からの知覚される静穏と沈黙は、そのフィールドに入った訪問者をそれが包む時、ほとんど気分転換を与えない内部の閉所恐怖症を引き起こす密度によって打ち砕かれる。プレゼンス(現前性)の中に居るという経験、経験の伝統的なしるしがない状態の経験、空間の中でもしかすると道に迷うという経験、非ー物質(非ー実質)の物質性(実質性)の経験、それは記念碑の不確実性である。そのようなプロジェクトがそのうわべのダイアグラムの抽象を乗り越える時、その過剰の中で、狂った根拠の過剰の中で、その時そのような作品は警告(兆候)やmahnmalになり、それ自身の意味あるいはそれ自身の美学で判断されず、それ自身の成功の不可能性で判断されるようになる。