Peter Eisenman
Written Into The Void
Selected writings
1990-2004
Peter Eisenman(ピーター・アイゼンマン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=Peter+Eisenman&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
YouYube(Peter Eisenman)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Peter+Eisenman&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
P.114
というのも、サブジェクト(主体、主題)の自覚(意識)は15世紀の初頭のアルベルティーのa storia(物語?)の提案の様なテキストの中で提示されていて、プレゼンス(現前性)の形而上学の体形(理論体系)は基本的神話、建築の理論になった。サブジェクトの導入とともに、オブジェクト(対象物)はオブジェクト(客体)とそれ自身の沈思黙考(それは以前は神によって左右された思考だった)両方になった。すなわち、それはオブジェクト(客体)とそれ自身の表現(表象、代理)、パースペクティブ(観点)、歴史やそれらの表現(表象、代理)であった。表現(表象、代理)が入ったとき、二つの「~の様に見える」と呼ばれ得たものが現れた。それはそれ自身の物事といくつかの他の物事の表現(表象、代理)である。建築はいつも明白に建築の様に見えたが、だから柱は木の様に見え、多くの近代の住宅は船の様に見える。存在しているフォーム(形、形式)の表現(表象、代理)の考えは形而上学の体系(理論体系)の概念の証拠として実例を示した。これが起こったとき、表現(表象、代理)はもはや建築においての慣習であるとは考えられなくて、むしろそれは自然の真理であると考えられた。
それは他の分野においても表れた。例えば、哲学者であるジャック・デリダは「建築はいつも意味する」と言ったし、美術史家であるロザリンド・クラウスは「建築はいつも4つの壁を持つ」と書いた。これらの二つの重要な文化的批評は、必然的に明白さを始めるために知られるのではなく、だから彼らがこのような声明をした理由があるに違いない。歴史的な観点から、素人の視点から、彼らの声明は単に建築についていつも信じられているものを反映しているに過ぎなく、つまり、建築はいくつかの自然の真実のフォーム(形、形式)を反映しているに過ぎないということである。
Jacques Derrida(ジャック・デリダ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80
Rosalind Krauss(ロザリンド・クラウス)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9
→ポスト構造主義が問題にする近代の「構造」であり、アイゼンマンもコールハースも基本的にはポスト構造主義的に近代の「構造」や「神話」を問い、これをその内部から意味的に脱構築する。(井戸)
P.115
例えば、4つの壁のある建物は、コーナー(角)があり、古典的な列柱があり、おそらくもはやその起源の意味を保持していないにも関わらず、まだ今日何かを意味しているということを前提としている。しかしながら、事実、コーナー(角)は単にコーナー(角)ではない。つまりそれは物事と考え両方であり、原因と効果両方である。コーナー(角)が解決される方法は、すなわち、効果として、原因の結果であり、空間を囲い込む必要性の結果であり、内部と外部を持つ為のものである。