カサ・デル・ファッショとアイゼンマンの住宅1号と比べてみる。
おそらくテラーニは建築を言語として、またその言語の生成構造としてみていなかった。
だから、空間(ヴォリュームとしての)はまだ存在しているが、アイゼンマン(コーリン・ロウ)が後に読み解く言語としての建築への「兆し」があり、その「兆し」がその空間にガラスの亀裂のようなものを与えている。アイゼンマンの住宅は言語構造として成立しているので、空間が破壊され、粉々に散った空間の破片が散らばるようである。テラーニが面白いのは、空間が破壊されずにかろうじてもとの形を保持していながらも、ヒビが入ったガラスのようにもろくはかないものだからだとに思う。