El croquis 86 MVRDV 1991-1997(El croquis 86+111 MVRDV 1991-2002)

MVRDV
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YouTube(MVRDV)
http://jp.youtube.com/results?search_query=MVRDV&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

Luis Moreno Mansilla + Emilio Tunon
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P.15(P.19)
MVRDV:たとえあなた自身でさえも内部を展示する(表明する)ことはとても現代的(近代的)なトピック(主題)のように思われる。それはひねくれたことかもしれないがプライバシーと公共性の混合の類似性を持っている。横断歩道の上を歩るきながら、ガールフレンドと電話している隣人の愛の会話を聞きながら、このように人々は注意を惹き付ける為にそのテレビ局に彼らのプライバシーを見せる。そのような状況ではプライバシー(個人の秘めごと)とパブリシティー(世間に知れ渡ること)の間の古くからの限界は見当違いのように思われる。
(私はちょうどブラジルへの旅行をしたばかりだ。そこには非常に多くのこれらの露出主義の現代(近代)的な建物が沢山ある。気候はこれらの種の建物すべてが過度な量のルーバーで覆われるべきであると要求しているにも関わらず、内部を見せようとする意志は、この透明性の避けられない結果(重要さ)よりも強い。)

P.16(P.20)
MVRDV:伝統的にはファサードはあなたが外部から観察する何かである、しかしちょうどその時、あなたは内部からの眺めをはるかにずっと妥当なものであるとみなすことができえた。これもVPROの建物の場合であった。

Villa VPRO
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MVRDV:それはすべてやがて来る高密度化のプロセスの一部としても見られうる。建物がお互いにより近づいたとき、世界はインテリア化(内部化、内面化)され始める。それは建築が二つの方向に分岐していく観察の一部である。一つはアーバニズム(都市性)の方向で、もう一つはインテリア(内部)の方向であり、それは効果的な役割を担い始めている。このインテリア化(内部化、内面化)は、建物のより近いポジション(位置)によってだけで表現されるものではない。それはまた照明やベンチやフラワー・ポッドなどを伴った中間のパブリック・スペースの徹底的な「デザイン」の中でそれ自身を表現する。それでそれらはインテリア(内部)になる。
現代の(同時代の)Nolliマップが出現する。まさにその時ファサードは消え始める。それは存在することをやめる。建物と都市のファブリック(織物)の間のハイブリッド(混合種)が現れる。バザール(市場)や宮殿や要塞化の様に。

Giambattista Nolli
http://en.wikipedia.org/wiki/Giambattista_Nolli

→高密度化されてしまった世界、まるで弐瓶勉のBLAME!(ブラム!)の世界を連想してしまう。(井戸)

BLAME!(ブラム!)弐瓶勉
http://ja.wikipedia.org/wiki/BLAME!

LMM+ET:VPROの建物で私達が最もその価値を認めていることは、建築を理解するこの方法が、まるでそれが外部空間のように建てられている内部空間を導いていることである。私達はオープン・スペースの定義は私達の時代の最も批評的な建築的思考であると見つけた・・・。

MVRDV:「ヴォイド(空隙)」の内部に囲い込まれた本当に多くの異なった意味がある。それは「脱出」や「未来」や「未知」やファンタジー(空想)や保護のためのシンボル(象徴)だ。あなたは如何にしてこの曖昧さを掘り当てることができうるのか?