El croquis 86 MVRDV 1991-1997(El croquis 86+111 MVRDV 1991-2002)

MVRDV
http://images.google.co.jp/images?gbv=1&svnum=10&um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=MVRDV&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5
YouTube(MVRDV)
http://jp.youtube.com/results?search_query=MVRDV&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

Luis Moreno Mansilla + Emilio Tunon ←インタヴュアー
http://images.google.co.jp/images?gbv=1&svnum=10&um=1&hl=ja&lr=&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Luis+Moreno+Mansilla%2CEmilio+Tunon&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5

P.19(P.23)
敷地上で

LMM+ET:サイト(敷地)はフォーム(形態、形式)によってよりもランドスケープによって理解されるのですか?ランドスケープの概念はあなた方の建物が自然と共有している何かですか?

MVRDV:もし「ランドスケープ」が「エンドレスネス(終わりのないこと)」として解釈されうるのであれば、「ランドスケープ」は考察されるべき面白く素晴らしい終わりのない論題である。もし「ネイチャー(自然)」が「自由」と同等と考えられうるのであれば、たくさんの探究がされうる。私達の建物の殆どはこれらの問題を研究するように思われる。
私達は極端にサイト・スペシフィック(特定の場所に帰属する)になる傾向がある、批判的地域主義になることなしに、あなた方はランドスケープの二重化としてそれをみなすことができた。私達の作品では私達はサイトのある側面を拡張するあるいは強調する傾向がある。サイトは自然の避けられない力ではない。時々あなた方はサイトを再定義し、新しいサイトを作らねばならない。それはMolenslootプロジェクトの様な現存するものの為の基礎だったり、WoZoCo’sプロジェクトの様な近隣の中のオープン・スペースである。あるいは、RVUプロジェクトの様に、埋込みによって突然現れるスロープである。
あなた方はサイト・スペシフィックとサイト・レスネス(特異な場所により帰属しない)の組み合わせを尋ねていたのか?教会では実際にサイトが天国に消えてしまう瞬間がある。VPROではサイトが消えて内部空間に変わる瞬間がある。WoZoCo’sではサイトがそこにあったのに、あなた方がギャラリー(歩廊)の上を歩いているとき、それが同じように内部空間になる瞬間がある。

サイト・スペシフィック
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/site_specific.html
批判的地域主義
http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/a_j/critic_regionalism.html

P.20(P.24)
教えること

LMM+ET:あなた方はロンドンの建築のA.A.スクール、ロッテルダムの建築アカデミー、デルフト工科大学、アムステルダムのベルラーへ・インスティテュートで教えてきています。モデル(規範、方式、型)が存在しないとき、どのようにあなた方は建築に対する熱意を学生達と共有しますか?

MVRDV:数年間の間に教えることに対する異なった姿勢がある。それらのひとつはデザイン(計画)の代わりとしてのリサーチである。FARMAXや、極端な密度の研究や、あるいはDATASCAPESや、隠された論理の研究や、あるいはINFRASTRUCTUREの研究や、強化された使用の研究や、あるいはTHE LIFE CITYや、現代の大規模農業(向けのもの)の様な論点を選択することによって、学生は集中することができる。それは社会の中のある論点に焦点をしぼりそれらに答えを与えようとすることによる教授の伝統的な状況である。そういう方法の中では、学生達はスペシフィックなリサーチへと自発的に入って行く一部であり、アーバニズムと建築を扱うスペシフィックな方法へと自発的に入って行く一部である。学生達はそれを完全に採用しその一部分のフィールドを探究する。
それはまた教えることの危険性のひとつでもある。一方では、明白なアイデンティティーで学校を創り出し、ある伝統の中で学生達を教育し、その伝統を明白にしようとすることはとても良いことだ、しかし、他方ではあなた方はしばしば教師達も学生達も両方とも彼ら自身の伝統に気付かなくなっているのを見る。だから、あなた方が招待講師として行ったとき、この姿勢を研究し論点にしようとすることはできるし、学生達に彼らが四六時中している選択の特性(癖)により気付かせようとすることはできる。
とにかく、私達はもはやこれ以上デザイン(計画)を教えれない。それは面白いことではない。私達はむしろフォーム(形態、形式)を生み出す思考あるいは実情(現地)調査の方法の中で学生達を教育しようとする。彼ら自身の「鉄のような論理」を打ち立てるために、そこは好み(趣味、嗜好)の様な何か主観的なものが殆ど直接的に関係しないところだ。