Oteiza’s Selected Writings
edited by Joseba Zulaika
Occasional Papers Series
University of Nevada, Reno. Center for Basque Studies

Jorge Oteiza
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You Tube (Jorge Oteiza)
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P.220
実験的な(経験的な)プロポーザル
サンパウロ、ブラジル、1956-57
プロポーザル・ノート

Jorge Oteiza:私は私の作品のパブリックな展覧会には不適当な時期にサンパウロの4回目のビエンナーレに選ばれたのに驚いた、というのも私は私が私自身に定めてきたある問題を解決するまで如何なるコンセプトにもそれを適合させるように変えないだろうからだ。私は完全にミニマリストのフォーマットで取り組んでいるし、如何なる結論にも至らない多数のヴァリエーションに取り組んでいる。私はその厳密に空間的な、フォーマル(形態的)な、光を発する(啓発的な)状態を越えたマテリアルを軽蔑する。私は実験的(経験的)なエッセンス(本質、実在)や、オブジェクティブ(客体的、物質的、客観的)なものや、コールド(冷静)なものや、インパーソナル(没個人的な)ものや、如何なるスペクタクル的な情熱から自由なものや、オリジナルや驚くべきものの様に見えようとする如何なるうわべだけの試みからも自由なものの状態を探す。これは何故私が私のピース(作品)のつつましさに幾らかの説明を補って完全にすることが必要と感じているかという理由である。エンプティー・スペース(空の空間)あるいはプロポーションや、現代彫刻の不変なものは、その彫刻が占有するサイト(敷地)あるいはエネルギーの生き生きしたフィールドとしてのそれ自身のネイチャー(自然、本質)の制作物である。私はこの関係性、つまりマッスがより大きくなればなるほど、その彫刻のはっきりと把握できる準備はより大きくなり、その彫刻の手(労力、手腕、手跡)がより目に見えるものになればなるほど、そのエンプティー・スペース(空の空間)はそのピース(作品)に対して、より見当違いかあるいは完全に異質なものになる。逆に、その彫刻がより複雑にならなければ(単純になればなるほど)、その周りの空間はより人の心に訴えるようになる。この単純な観察によって、私は私が提示するピース(作品)の特徴を部分的に正当化する。その中で私は彫像の美的な本質を、純粋に空間的な有機体、厳密に言えば、ライトウェイトな(取るに足らない)あるいはおしつけがましくないフォーマル(形態的)な要素の融解を通した彫像の活発な不動性として据える。

P.221
Jorge Oteiza:続く概略はこれらを参照してきた。
活発な非占有、あるいは、押しつけがましくないフォーマル(形態的)な要素の融解を通した空間の空虚化としての彫像
正確に言うと、私は彫像においてエネルギーのこのタイプの解放を試みる、形態的におしつけがましくない要素の融解を通して、それは、ダイナミック(動的)で開かれているが、マッスや、ソリッド(中まで同一物質)なものや、あるいはそのマッスを解体することによって空間を満たす幾らかのアレンジメント(配置)のフィジカル(物質的、身体的)な不活発性を通してではなくて、むしろ彫像のため、あるいは彫像が自由になる必要がある状況の下での空間のためのエンプティー・スペース(空の空間)のニュートラリティーの破壊を通してであるが、いつもそれは要素的なフォーム(形態)や本来備わっている空間的なマトリクス(ものを生み出す母体、基盤)の、活用(結合)させられる能力のある、論理的で上昇的なシステムによってである。