Oteiza’s Selected Writings
edited by Joseba Zulaika
Occasional Papers Series
University of Nevada, Reno. Center for Basque Studies
Jorge Oteiza
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You Tube (Jorge Oteiza)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Jorge+Oteiza&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
P.427
JO:私はこの空間をナチュラルな(自然の、本質的な)空間へと空っぽにすることに成功したときや、私が理論的な(形而上学の)家具のピースや、精神的に居住に適する内部の受容的な空間にそれを変換することによってその彫像性を形式的に効力をなくすときに、私は私の経験的な(実験的な)彫刻を完成させる。ネイチャー(自然、本質)は私に返ってくる。
JI:あなたのアートの中で空間が担っている役割について定義してもらえませんか。何が宗教的な空間ですか?そしてどういう感覚が宗教的なのですか?何が空にされた(空虚な)空間ですか?
JO:私はこの点にまさに触れていた。私は宗教的な空間に関わるときに何かを付け足すことができる。アートにおいて今流行っている傾向(このインタヴューは1960年にされた)は、束の間のダイナミック(変遷の型)においてフォーム(形式、形態)をはっきりと示すアートのメカニズム(からくり)としての作品や、現実あるいはアーティストの主観的な苦悩に満ちた存在に関する(実存的な)時間(時代)の同時代的なイメージとしての時間(時代)とムーブメントを表現するアートに向かっている。両方の傾向においても、インフォーマル(非形式)と同様にフォルマリスト(形式主義者)も、アートの作品は現実と人間の中に存在するものを繰り返す。私は私に不足しているものを探している、それは、精神的な解釈(解答)であり、厳格な視覚的ことばの中にあり、生活(人生)における私達の不確かさから生じ、用意ができていなく無防備な私達の感覚を過度にかき乱す周りの空間からの印象をそれに負わせる懸念(疑念)のこの一般的な不安に対してのものである。
P.428
JO:このアートのコミュニケーションの表現のネイチャー(本質)は、聞き手や観客としての受容的な役割に人を服従させる。私がそれを見たとき、今日のアートの最も差し迫った目的は、その人の空間的な感受性を扱うことを通して人の理論的な(形而上学的な)ヒーリング(癒し)に貢献することであり、アートの作品の概念は全く反対であるべきだと私は考えるようになった。受容的な存在(物)はアートの作品になるべきであり、それはそのフォーム(形式、形態)の一時性を中立(中和、無効)にし、それらを沈黙させ、それは、空間の効力をなくし、あるいは空間を空(空虚)にするものである。この手法の中で、人の静観的な(黙想的な)気持ち(態度)の中で、人は深い内部からの活発な反作用へと押し込められる。そして、真に宗教的な気持ち(態度)と一致するのは正確にこの気持ち(態度)であることがわかり、それは、私達がそれを見る時、それらのアートに対して受け入れられるネイチャー(本質)の美的な概念から、そして建築的空間から、予期されるべきものであり、それらの両方とも宗教的であることを切望する。