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John Pawson
PHAIDON
John Pawson(ジョン・ポーソン)
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P.10
J.P.:シンプリシティー(シンプル性)をモダニズムの貧弱性や、機械の時代の美学や、装飾の剥奪と等しいものとする人々がいる、そこではフォーム(形態)とディテールがおとなしさ(退屈さ)の最小公分母(共通項)に引き下げられている。しかしシンプリシティーは実用主義や実用性を考えていないことと同じではない。まさにアートの抽象性はドローイングを通して表象(表現)の技術の熟練に拠っている、だからシンプリシティーは実際に成し遂げることはとても困難だ。それは注意や思考や知識や根気に拠っている。
勿論、モダニズムのパイオニア達はシンプリシティーを彼らのアジェンダ(実践すべき義務)の一部にした。アドルフ・ロースのよく知られた論争、それは1908年に新聞のコラムに独特でわざと挑発的に書かれたものあるが、装飾と罪悪を等しいものとしていた。それは規範的なマニフェスト(宣言書)として意味されたものではなかった。それよりもそれはウィーンのブルジョアの社会の中で、コンサートホールでのベートーヴェンの好みや、家での19世紀末の過剰性とともに、反対(否定、矛盾)への注意を引いた。
Adolf Loos(アドルフ・ロース)
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P.11
J.P.:結局、それはシンプリシティーの洗練のための雄弁な口実だった。
モダン・ムーブメントの最も偉大な二人の建築家の内、ル・コルビュジエは非の打ちどころなく華々しいとはいえ、私が最も共感を憶えるのはミースであることを言わなければならない。そしてそれはル・コルビュジエのスケッチブックが私もまた愛しているもの、伝統的な神殿や、ムーア人の建築や、遊牧民のテントで満たされている事実にもかかわらずにである。ル・コルビジュエは異常な(奇妙な、並外れた)アウトプットを持っていた、彼は、絶え間なく彼自身を徹底的に作り直す、天才の様な一種のピカソだった。ところがミースは華々しい洗練者だった。私は決してル・コルビュジエによる建物に行かないし、それはまさに完全であると思う。彼の建物は圧倒的だろうし、それらはいつも興味深いが、それらは決してあなたを完全に満足させておかない。彼は完全性に興味がなかった。一方で、ミースは、取り掛かり、それらをよりシンプルにした。彼はあなたのためにフィルタリング(濾過)をした。彼は完全主義者だった、ところがル・コルビュジエはいつも喜んで偶然の周りで取り組んでいた。そして結局、彼はル・コルビュジエと同じ程度のことをした。しかし、デレク・ジャーマンが彼がどのようにそれだけ多くのことをなんとか成し遂げたのか尋ねた時、彼は「私は幸運だった、私は完全主義者として生まれてきたのではない」と答えたのを思い出さなければならない。
ハイ・モダニズムが確かにそれを採用する一方、建築のシンプリシティーは単独でモダニズムと等しいものとはされえない。それはそれよりもより古く、より豊かで、より一般的な伝統である。フラ・アンジェリコは言った「真の豊かさは少ししかないものとともにある内容であることの中にある」と。400年後に、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは書いた、「素晴らしい建築家と粗末な建築家の違いは、粗末な建築家はすべての誘惑に屈するのに対し素晴らしい建築家はそれに抵抗するということだ。」
Ludwig van Beethoven(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)
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Le Corbusier(ル・コルビュジエ)
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Mies van der Rohe(ミース・ファン・デル・ローエ)
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Derek Jarman(デレク・ジャーマン)
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Fra Angelico(フラ・アンジェリコ)
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Ludwig Josef Johann Wittgenstein(ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン)
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→コールハースはミニマルは過度の装飾だと切り捨てる。現在のミニマルなデザインの大衆的な広まりは、消費の欲望のシステム「機械」の中に取り込まれている言語である。過度なデザインもミニマルなデザインも違いはない。ジョン・ポーソンがニーチェを引用するのは意外に感じるが、すべては解釈であるこの「欲望」の世界を乗り越えていくものとしてシンプリシティーを捉えている。ミースはいわゆる機能主義ではない。形態は機能には従わない。時代精神を表現するために形態を使う、それはシーグラムビルを見れば明白だ。ウィトゲンシュタインをジャッドも引用していた。(井戸)