Taking Place
The Works of Michael Elmgreen & Ingar Dragset
Hatje Cantz

Michael Elmgreen & Ingar Dragset(マイケル・エルムグリーン&インガー・ドラッグセット)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&q=Michael%20Elmgreen%20%26%20Ingar%20Dragset&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://www.klosterfelde.de/sites/artists/elm-drag/ar_f.html

Coco Fusco(←インタヴュアー)
http://en.wikipedia.org/wiki/Coco_Fusco

P.36
変形(変質)する行為(演技)
2001年10月にCoco FuscoがIngar DragsetとMichael Elmgreenにインタヴューしたもの。

Coco Fusco:パフォーマンスはアーティストとしてのあなた方のコラボレーションに触媒作用を及ぼす媒体になっているように思われる。パフォーマンス・アートはあなた方が始めた時あなた方の各々にどんな意味がありましたか?もしそうであればあなた方のパフォーマンスの見方はあなた方が一緒に取り組んだ後変わりましたか?

Ingar Dragset:私はノルウェーの大学で演劇の歴史を学んだ。その当時パフォーマンス・アートは私が学んでいた他の演劇の作品よりもよりラディカル(急進的)で政治的に告発していたアートの実践に私を導くものとして役に立った。実際にモダン(現代)のあるいはコンテンポラリー(同時代)アートのためのフォーラム(討論の場)がない町から出てきて、私がLiving TheaterやAllan KaprowやCarolee Schneemannについて読んだ時私は完全に変えられた。私はパフォーマンスを無限の可能性のある新しい世界として見ていた。数年後に私がMichaelに会った時、私は小さな実験演劇グループを一緒に保つことに奮闘していて少し幻滅していた、なぜなら私は歴史の本の中で読んでいた幻想的なパフォーマンスの精神を見つけられなかったからだ。私が最終的にコペンハーゲンでヴィジュアル・アート・シーンに出会った時、それはとても自由にする経験だった。90年代初期そこには町中で彼ら自身の空間を運営し展覧会やプロジェクトをキュレートしていたアーティストらとともに、とても強い独立したアート・シーンがあった。彼等は多かれ少なかれ無知なエスタブリッシュメント(既成の権力、主流派)に背を向けていた。まわりには大して実際のパフォーマンスはなかったが、多くの相互作用する作品と多くの社会的に取り組んでいる作品があった。一般的にヴィジュアル・アート・シーンは演劇の世界がそうであったよりもはるかにもっとコンテンポラリー(同時代的)な問題と言語に関係していた。

Michael Elmgreen:Ingerと私が出会った時、私は既に数年間コペンハーゲンのローカルなアート・シーンの一部にいた。私達の最初のコラボレーションはこのコンテキスト(文脈)から現われたが、私は私達の最初の作品は総合的にパフォーマンスの媒体を使う何か重大なことを私達が言いたいということと同じくらい愛の中の私達の存在にまさによると白状する。

The Living Theater
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=The+Living+Theater&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Living_Theater
Allan Kaprow
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=Allan+Kaprow&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Allan_Kaprow
Carolee Schneemann
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=Carolee+Schneemann&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2
http://www.caroleeschneemann.com/

P.37
Michael Elmgreen:私はパフォーマンスの実践に親しかったが、私はIngerに出会うまで私自身の為にパフォーマンスをすることを決して考えたことはなかった。私は私自身を観衆の前に置く可能性をよく考えたことがなかった。私は絶対的に如何なるコンテンポラリーな演劇とも関係がないと感じた。しかし私達が一緒になったとき、今後は創造的な決定はまさに私についてのものではなくて、それらは私達についてのもので、結局大部分は異性愛者の環境の中の同性愛のカップルであることについてのものでもまたあった。

Coco Fusco:二人組としてのあなた方の相互作用の「足場(演出)」はどのような方法で、あなた方がパートナーシップとしての創造的なプロセスを明らかにするのを助けますか?パフォーマンスはあなた方が個々の感覚を融合するのに役に立ちましたか?

Michael Elmgreen:以前に私が言っている様に、私達の関係性の始まりにおいて、私達のコラボレーションのプロジェクトは私達がより多くの時間を一緒に過ごした口実だった。私達は一緒に旅行する幾つかの招待を得ることができ、私達は私達の経験の幾らかを共有するプラットフォームを創造した。しかし私達の作品が私達の時間のより大きな部分を占め始めるにつれて、コラボレーションは私達の生活の方法全体に影響を与え始めた。今日では私は朝食を越えてあるプロジェクトを議論することができない誰かと一緒にいることが創造できない。あなたが言っていることにナチュラルな興味を持つ人生の伴侶を持つことはそのくらい贅沢である。朝のコーヒーを持ってそこに座りあなたの脳は幾らかの新しいアイデア(考え)を爆発的に生み出して、それからただ「あら、本当に?、面白い!」という返事を聞くだけなのは恐ろしいだろう。しかし勿論私達はまだ私達個人個人の特徴を保っていて、それは私達の取り組むプロセスにダイナミックス(動力)を加える。チームとして私達はお互いを良く知りそれでもまだお互い違うことができる。私達の最終的なアートの声明は、決して私達の内の一人の結果ではないが、私達の間の何かによるものである。これは妥協についてではなくて、むしろ私達の間のギャップ(裂け目)についてのものである。私達のコラボレーションは線の間に存在する秘密の宇宙から現われる小さな断片である。実際的なレベルでは、私達が二人でいることは私達がアート・シーンを扱うことに関して私達をより強くする。

→彼らには感覚的にフェリックス・ゴンザレス=トレスと近いものを感じる。トレスの様にフーコーやアルチュセールやバルトの影響があるのだろうか?(井戸)

Felix Gonzalez-Torres(フェリックス・ゴンザレス=トレス)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Felix+Gonzalez-Torres+&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
http://www.b-sou.com/palm-Gonzalez.htm
Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC
Louis Althusser(ルイ・アルチュセール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AB
Roland Barthes(ロラン・バルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88