Anish Kapoor
Past Present Future
Institute Of Contemporary Art / Boston
MIT Press
Anish Kapoor(アニッシュ・カプーア)
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http://en.wikipedia.org/wiki/Anish_Kapoor
YouYube(Anish Kapoor)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Anish+Kapoor&search_type=&aq=f
P.32
Nichalas Baume:あなたは特別な建築を参照していますか?
Anish Kapoor:例えばJantar Manterや、1730年頃のJai Sihgh王やラージャスターン王による天文台だ。それらは本当に驚くべきものであり、彼らの建築術のフォーム(形、形式)の中で神秘的でさえある。例えばまさに空に向かって登っていく階段がある。それらは星を観測するためのものであるが、それらは何も導くものではない。その日時計もまた信じられないほどすごい。
P.33
Nichalas Baume:天文台のアイデア(考え)は、見ることと知覚することや内部と外部の空間をチャート化(図表化)することの行為に大いに関わっているあなたの作品との関係において相応しい様に思われる。
Anish Kapoor:全くその通りだし、私はグラウンド(大地、地面)との手段としてのフィジカル(自然の、物理的な、身体的な)関係にとても強く応答している、つまりそれらのいくつかは地球(地面)に沈められさえする。そしてコスモス(宇宙)のアイデア(考え)とのとても興味深い関係もまたある。ある人はすべての偉大な(顕著な)象徴的なモニュメントを見ることができたが、しかし私はまさに道端の小さな小屋に興味がある。莫大な多様性と発明がある。外部に開かれたモスクを取り上げよう、それは建物がない壁である。それはそんなにも力強い。それは、如何なる建物もなく、まさに壁しかないのに魔術的に(不思議に、魅力的に)領域を囲い込む様に思われる。それはあるオブジェクト(客体)がライフ(生命、人生、生活)に訪れる、フィジカルな(自然な、物理的な、身体的な)空間を浸透する様になる状態(方法)について何か言っているが、それはまた空間それ自身が哲学的な存在(実在)であり、単に物事が起こる場所ではないという状態(方法)について何かを言っている。
P.34
Nichalas Baume:あなたの経歴の初期の時期にインドのアーティストとしてレッテルを貼られたことは一種のマージナライゼイション(集団の周辺的な地位に追いやること、ジャンルの細分化)の危機にさらされたように思われる。あなたはそれはまだ今日有効であると思いますか?
Anish Kapoor:それは実際過去25年の間に多く変わった。旅行をする全体的な姿勢が変わってしまったし、外国人のアイデア(考え)も変わってしまった。私が最初に1973年にイギリスに来たとき、アートスクールで私は何度も何度も尋ねられた、「インドでは皆さん車を持っているのですか、あるいは象に乗って移動するのですか?」と。私は真剣だ!。莫大な文化的シフト(変化)があり、今ではインドは顕著な新興の経済国の一つである。
Nichalas Baume:文化的なコンテキストが変わるにつれて、あなたのアーティストとしてのポジションもまた、国際的なアートの世界の確立された人物として、変わりましたか?
Anish Kapoor:ああ、しかし私はいつも私の性格分析は偶然(二次的)であるというポジションを取ってきた、つまりそれは作品のためのわずかに触れる程度の(脱線的な)スタート地点である。あなたも知っての通り、私はTracery Eminではない!これは二つの伝統(モダニストとアジア人)がとてもよく同時に存在しているところである。私が感嘆するモダニストのアートは作品がそれ自身のライフ(生命)を獲得する跳躍台としてそれ自身を見ている。あなたは、それ自身すべての表現が決定されるものから完全に外れていない、アジアのアートの中にまさに同じような態度を見つける。それ自身はただある意味である。それが何故私が「私は言うことがない」と言い続けているのかという理由である。
→カプーアの作品を見ていると、壁や床の穴やその色の深淵に吸い込まれる感覚が湧いてくる。しかし、そこをのぞき込むだけで中に入っていけない。また鏡面の曲面体は周りの景色を歪めて映し出す、それは吸い込まれる感覚の壁や床の穴の作品の「内部の世界」と「こちら側の世界」が反転してしまったかの様だ。建築で言えば、壁は仕切るものであると同時に「包むもの」「はねかえすもの」でもある。開口部やドアは行き来し閉じるものであると同時に「吸い込む口」「吐き出す口」「覗き見る目」でもある。色は塗られるものであると同時に私の意識が「引き込まれるもの」でもある。壁や床はその表面を見られてはいるが、観念的な壁や床として意識されているだけで、その断面やその表面の直ぐ下の壁自身や床自身の内部は実は意識されていないことに気付かされる。(井戸)