minimum
John Pawson
PHAIDON

John Pawson(ジョン・ポーソン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=+John+Pawson&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi

P.9
J.P.:そのイメージは私が新石器時代のストーン・サークルから現在の建物の範囲で選んだものだ。そして中世の教会のすりへった石から、日本の陶磁器まで、自分自身を建築家として呼ばれることを夢見たであろう人々から如何なる寄与もなく建てられたアノニマスな(無名の)イタリアの納屋から、ミース・ファン・デル・ローエの鉄とガラスの建築の正確さまで。それらはすべて場所であり、または物事(実在)であり、または私が本能的に(直感的に)感応する感覚である。あなたはそれらを高く評価するように教えられる必要はない。しかし、あなたがこれらの物事(実在)をそれらが存在するものとして(ありのままに)見るまでには、時々それは多くの、多くの見ることを必要とする。私はヨークシアのハリファックスという織物の町で育ったが、私が子供のときほとんど毎日見ていたマッシブな(大きくて重い)19世紀の複合工場の為のプロジェクトに取りかかり始めたとき、それらのモノリシックな(一体的な)石の壁や叙情詩的に調整されたスロープのネットワークやそれらを横切っている橋が本当に持っていた普通でない質を私が理解したのは数年後のことであった。ここで、ル・コルビジュエがかつて言った「見る為の目(視覚)をともなうものの為に」は、いくらかピラネージによる彫版の本物の威厳と壮麗さであり、光と影の同様の質であり、マッス(量塊)とヴォリューム(体積、容量)の同様の祝福であった。

Mies van der Rohe(ミース・ファン・デル・ローエ)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&q=Mies%20van%20der%20Rohe&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
Le Corbusier(ル・コルビジュエ)
http://images.google.co.jp/images?um=1&hl=ja&lr=&client=firefox-a&channel=s&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=Le+Corbusier&btnG=%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.10
J.P.:シンプリシティー(シンプル性)は表象しているもの(表わしているもの)として見られうるというオーダー(慣例)への探究の他のおそらくよりかき乱している(邪魔している)解釈があるということに人はまた気付く必要がある。ニーチェは書いた「一つの世界があるだけだ、そしてこれは間違っていて、残酷で、矛盾していて、誘惑的で、意味などない。」このように構成された世界はリアルな世界である。私達は、この現実、この「真実」を征服する為に、すみかの必要性がある。それはニーチェのアートの見方の中で反響されている(よく考えられている)ある見方であり、「私達が真実をだめにしないように私達はアートを所有する」と彼は書いた。ニーチェにとって、アートは意志のある表現であり、私達に世界の不完全さを乗り越える力を与えるものである。この見方は、ニーチェの崇拝者であるペーター・ベーレンスの建築とデザインを導き、それは彼がAEGのタービン工場とサンクトペテルブルクのドイツ大使館の為の威厳のある抑制の言語を探し求めていた時のことだった。それにベーレンスを通して、それはおそらくミース・ファン・デル・ローエの作品にも形作られた。ベーレンスの作品の力はその近代産業社会の採用の中にある。現実という言葉に戻ると、ベーレンスは、過剰が引き剥がされた、静かな威厳のある、本質的にシンプリシティーと関係しているオーダー(秩序)の洗練した感覚を構築することができた。

Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
Peter Behrens(ペーター・ベーレンス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Behrens