Peter Eisenman Diagram Diaries
UNIVERSE
Peter Eisenman(ピーター・アイゼンマン)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=Peter+Eisenman&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
YouYube(Peter Eisenman)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Peter+Eisenman&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
P.64
Peter Eisenman:建築におけるどんなダイアグラムも、機能と意味によっていつも正当化されるだろうが、それは最初のうちは他の目的を覆い隠している。明らかにすべての建築は物事を保つことや、雨風をよけたり、囲ったり、分割したりする幾らかの目的と、要するに、基本的に重力と静止の法則に従うことに何か関係しているものとして見られ得る。
P.65
Peter Eisenman:だから柱と壁は最初のうちはサイン(記号)としてめったに読まれないが、むしろコンストラクション(建造)の完全体としての方がより読まれそうである。いったい人々にそれらを、コンストラクション(建造)としてあるいはコンストラクション(建造)のサイン(記号)として読ませるかどうかということは、このコンテキスト(文脈)の中では明白でない。このアイデア(考え)はヴァルター・ベンヤミンの、建築は本質的に上の空の観察者によって見られるという論点によって裏付けられている。発展したものとしてのダイアグラムのアイデア(考え)はここで建築はコンストラクション(建造)の完全体としても、そしてまた、幾らかのレベルでは、インデックス(指標)としても、それは即ち、その機能や、その意味や、あるいはその美とは関係のないサイン(記号)の「他の」状態として振る舞う可能性としても両方存在し得ると提案した。この「他の」状態は機能や、構造や、意味の必要な状態と関係している「過剰」の一つとして特徴づけられ、それはその時潜在的な「アプリオリな(先験的な)」アブセンス(不在)の幾らかのフォーム(形態、形式)として見られ得た、なぜなら、それはもはやプレゼンス(存在、現前性)、即ち、コンストラクション(建造)や、機能、等々に拘束されていなかった。
Walter Benjamin(ヴァルター・ベンヤミン)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%A4%E3%83%9F%E3%83%B3
P.66
Peter Eisenman:この様にHouseⅡ(住宅2号)のダイアグラムでは、特別な完全体(柱や、壁や、等々)は単にコンストラクション(建造)の完全体としてのそれらの種類のサイン(記号)として見られなかった、つまりそれらはまた何か他のものを表象(表現)するようにも見られた。この何か他のものが重要性を持つ為に(柱はそのディメンション(寸法、特質)が何か他のものとしてなんとかしてマーク(記)されサイン(示)されるまでは単なる構造的な要素である)、その柱は構造とは違う幾らかの方法でデザイン(設計)されなければならなかった。柱のグリッドあるいは壁のシークエンス(連続)のどちらかが十分能力がある構造システムとして見られ得るから、この過剰の明示は存在する。
ひとまとめにされたHouseⅡ(住宅2号)の二つの被せられたシステムは元々の価値あるいは単一の解釈との如何なる関係性をもぼやけさせる。その二つのシステムはフォーマリー(形態的、形式的)にも構造的にも両方等しい価値であった、その中で柱あるいは壁は効果をもたらす(操作的な)構造に成り得た。これは一つのシステムは効果をもたらす(操作的な)ものではない、あるいは各々は、半分の荷重は柱によって支えられ、半分の荷重は耐力壁によって支えられるという、50%で操作されるということを意味し得た。
P.67
Peter Eisenman:どちらのシステムもまた、機能に対する一つのシステムに構造の二重化の結果としてのサイン(記号)をもたらしながら、過剰として見られ得た。HouseⅡ(住宅2号)において、建てられたオブジェクト(もの、客体)はそのプロセスのダイアグラムになる。そのオブジェクト(もの、客体)とダイアグラムは両方とも、一対一である、つまり同時にダイアグラムとして効果をもたらす(操作している)現実の住宅である。
この様に構造システムの二重化の中で、柱と壁はもはや単なるフォーマル(形態的、形式的)なあるいは構造的な存在ではない。むしろ、フォーマル(形態的、形式的)な存在として、それらはまたアブセンス(不在)を、ダイアグラムを通して媒介されたものとしての内在性のプレゼンス(存在、現前性)の跡を付けた。事実、柱あるいは壁の位置はそれらのフォーマル(形態的、形式的)なあるいは機能的な意図の結果としてでなく、むしろそのダイアグラムのプレゼンス(アブセンス)の跡を付ける過剰の余剰(重複)の跡を付ける指標的な構造の結果として見られた。建築を単に言語としてでなく差異の内在性の単一の明示として読む為にイコン(像、象徴的なもの)をそのインストゥルメント(道具、手段、手先)から引き離す必要性はダイアグラムの次のシリーズの重要な部分になる。
→アイゼンマンとコールハースは、記号の過剰やプログラムの過剰作動からその歴史やコンテキストのミクロな権力の「不在」を現象させることは似ているのだが、アイゼンマンの方がその主題に徹底してそのデモンストレーションをしていて(つまり主題が単一)、何かシアトリカル(演劇的)ですらある。コールハースの方がより曖昧性を保持していて、より多くの意味の潜在性を、つまりパースペクティブ(解釈)の多様性を保持している。(井戸)
Rem Koolhaas(レム・コールハース)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Rem+Koolhaas&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
Ferdinand de Saussure(フェルディナン・ド・ソシュール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB
Jacques Derrida(ジャック・デリダ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80
Roland Barthes(ロラン・バルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88
Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
Pierre-Félix Guattari(ピエール=フェリックス・ガタリ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%BF%E3%83%AA
Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC