El croquis AMOMA REM KOOLHAAS 134/135

Rem Koolhaas(レム・コールハース)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Rem+Koolhaas&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
You Tube(Rem Koolhaas)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Rem+Koolhaas&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.354
B.C.:確かにそうだわ。彼(ヒルベルザイマー)のブロックは近代建築のジェネリックな形態である。私はGroszstatからLagosまでの都市と出版との間の関係に興味がある。1977年の初期のものの一つADの特別号において、あなたはOMAのミッションは「アーバニズムのミュータント(突然変異)の形、メトロポリタンなライフスタイルのリハビリテーション(復権、社会復帰)の為の新しいタイプの建築のシナリオを発展させること」であると言っていた。それはDelirious New York(錯乱のニューヨーク)の為のリサーチととても関係していると聞こえた。OMAの設立とDelirious New York(錯乱のニューヨーク)を導いたリサーチとの間の関係は何?どちらが先に来たの?

R.K.:Delirious New York(錯乱のニューヨーク)が最初に来た・・・。ニューヨークに対して何かをしようという漠然とした考えは1972年にさかのぼる。それがなぜ私がアメリカにやってきたかという理由だ・・・しかし同時にエリア(ゼンゲリス)と共に事務所を始めようという平行した意図もあり、それから、私が思うに1975年だったと思うが、私達がその為にポスターを作った「The Sparklig Metropolis」というグッゲンハイム美術館での展覧会でその二つは一緒になった。それは「The arrival of the floating pool in Manhattan(マンハッタンへの浮んだプールの到着)」を描いた。

Elia Zenghelis(エリア・ゼンゲリス)
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http://en.wikipedia.org/wiki/Elia_Zenghelis

B.C.:あなたはその展覧会を担当していたの、それともまさに参加していたの?

P.355
R.K.:それはMargit RowellによってキュレーションされたOMAの展覧会だった。

B.C.:作品の初めての展覧会?あなたは1972年にアメリカに行ったと言いましたよね。それはあなたがDelirious New York(錯乱のニューヨーク)を書き始めた時ではなかった?

R.K.:’72年か’73年から、漠然とニューヨークについて私が何かしたいと思っていることを知っていながら、私はコーネル大学にいた。私はリサーチを蓄積し始めた。

B.C.:どういったリサーチ?

R.K.:本質的に読むことだ。勿論、破片やあれこれ必要な用具やより次から次へと変っていく一般大衆のニューヨークの残存物を集めたりもした。

B.C.:例えば?

R.K.:ポストカード。私達はニューヨークについてのおそらく約1万ものポストカードのコレクションを持っている・・・。

B.C.:イサカ(コーネル大学のある市)でニューヨークの1万のポストカードを集めることができた?何処で?本屋で・・・。

R.K.:そう。格安中古品店と骨董品店で。私達がニューヨークに行くやいなや、私達はメトロポリタン・ポストカード・コレクターズ・クラブの一員となった。

B.C.:メトロポリタン?それはあなたがOMAの名前として採用したものでは?それはどんなクラブだったの?

R.K.:それは巨大な建物のダウンタウンで月一回の会合だった。一つのフロアーが月一回メトロポリタン・ポストカード・コレクターズ・クラブへと変えられた。それは都市のように、すべてのひとはテーブルを持ち、ポストカードが靴箱の中でそろえられているテーブルの「目的地(港)」の間をあなたは巡回するような仕方だった。各々のテーブルでは、すべての種類の可能なフェティシズムが整頓され索引をつけられていた。聴覚障害者が「ロシア皇帝の家族」のような小さなポストカードを持ちながら黙っているように、一般的に、相当な数の障害者がいた。それは測り知れぬほど貴重な供給源だった。なぜなら、Delirious New York(錯乱のニューヨーク)の3分の1は、私がそこで発見したポストカードの中のそのイコノグラフィー(図像)とまさにその情報に基づいているからである。ロックフェラーセンターの中間段階のデザイン・ヴァージョンのすべてのポストカードがあった。それはその当時パブリックと建築家の間のコミュニケーションが如何に直接関係していたかということであった。(Delirious New York(錯乱のニューヨーク)のページを指さしながら)ここにロックフェラーセンターの建物のデザインの歴史を描写する4つのポストカードがある。そして、私は他の場所ではそれを見つけることができなかった。殆ど完全なコニー・アイランドの断面図はポストカードに基づいていて、これらは同じようなポストカードである。それはコーネル大学での信じられないような年だった。なぜならフーコーがそこで教えていたからだ。それにユベール・ダミッシュも。私達はユベールとTeriと友達になった。私達はダミッシュ夫妻とフーコーとかつてピクニックに出かけた。それから’73年から’77年にかけて私はIAUS「Institute of Architecture and Urban Studies」にいた。

Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC
Hubert Damisch(ユベール・ダミッシュ)
http://passing.nobody.jp/thought/damisch.html