Gerhard Richter
The Daily Practice of Painting
Writings 1962-1993
Thames & Hudson

Gerhard Richter(ゲルハルト・リヒター)
http://images.google.co.jp/images?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official&channel=s&hl=ja&q=Gerhard%20Richter&lr=&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wi
http://en.wikipedia.org/wiki/Gerhard_Richter
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%92%E3%82%BF%E3%83%BC
美術家の言葉(ゲルハルト・リヒター)
http://www.b-sou.com/palw-Richter.htm
You Tube(Gerhard Richter)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Gerhard+Richter&search_type=&aq=-1&oq=

→H&deMやRem Koolhaas/OMAの本を見ているとリヒターが引用されていたりするし、Valerio Olgiati(ヴァレリオ・オルジアッティ)が2G n.37 P.134でリヒターの1962年のメモから一部引用していたのと、ハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタヴューはこのメモを話題にしているようなので読んでみたいと思う。ちなみにこの本の大半は既に日本語に訳され「ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論」淡交社として出版されているが、英語でゆっくり読まないと僕の場合は頭に残らないので読みたいと思う。Atlasを眺めていると、リヒターの色や形の感覚がジャッドに近いと感じる。リヒターによる家具のスケッチや建築のスケッチを見ているとジャッドそのものだ。トーマス・ルフ、ウォルフガング・ティルマンス、トーマス・デマンド、オラファー・エリアソンらへ影響を与えているなと感じる。(井戸)

Valerio Olgiati(ヴァレリオ・オルジアッティ)
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→10年程前か、大島さん(故大島哲蔵氏)がヴァレリオ・オルジアッティのお父さんも建築家で少し歪んだ(斜め)のプランをする人だとおっしゃっていたが、Das Gelbe Haus,Flims(The Yellow House)の解説を読むとそのお父さんが教区と契約をしていた建物の改修を息子であるヴァレリオ・オルジアッティが行なったものらしい。(井戸)

P.11
Notes,1962(→リヒター30歳の時のメモ)
Gerhard Richter

絵画あるいは一般的なアートに向かう最初の衝撃は、(なじみがなく名前と意味を与えられなければならない)アピアレンス(発生、外観、感覚的印象)を扱う為に、コミュニケート(意思伝達)する必要性や、ある人の自身のヴィジョンを固める為の努力から生じる。これなしでは、すべての作品は無意味なものであり正しいとされないだろう。アートの目的の為のアートとして。
アートがネイチャー(自然、本質)をコピーするという考えは致命的な思い違いだ。アートはいつもネイチャー(自然、本質)に反して操作され、理由(道理)の為に操作される。
すべての言葉、すべてのライン(線)、すべての思考は、私達が生きている時代によって、そのすべての状況(環境)や、すべての結びつきや、その努力や、その過去と現在とともに、刺激される(思いつかされる)。無関係に(独立して)自由気ままに活動したり考えることは不可能だ。これはある意味励みになる。個人に対してその時代の集合的な経験は結束(束縛)を意味し、その上ある意味で安心(保証)を意味する。つまりそれらはいつも災害(大失敗)の中にさえいる可能性になるだろう。
「目にみえないものを見えるようにする」ことや、知られていないことを知られるようにしたり、考えられないことを考えられるようにすることを期待したり要求すたりすることは意味がない。私達は目に見えないものについての推断を引き出す(引き寄せる)ことはできる。つまり、私達は相関的な確実性でその存在を仮定(前提)とすることができる。しかし私達が表わすことができるものすべては類似であり、それは見えないものを表わしているが、見えないものそのものではない。
あるものが他のものから引き継いだものを無批判に受け入れることについて、どんな言い逃れもできない。というのも、それ自身の中では良いも悪いもないからで、ただそれがスペシフィックな(特定の)環境や私達自身の意図と関係しているというだけである。この事実は慣例について保証され絶対的なものはなにもないことを意味している。つまりそれは良いものを悪いものから見分ける日々の責任を私達に与える。
物事を描く(絵に描く、写真に撮る)ことや眺めること(考えること)は私達を人間的にすることだ。つまりアートは感覚(意味)を作ることであり、その感覚(意味)に形を与えることである。それはまるで神への宗教的な探究の様である。私達は感覚(意味)をつくることと描くことは、イリュージョン(幻覚、錯覚)の様に、人為的な(うわべだけの)ものであることには十分気付いている。がしかし、私達は決してそれらをやめることができない。というのも信念(考え抜くことと現在と未来を解釈すること)は私達の最も重要な特徴だからだ。

→マレーヴィチのシュプレマティビズム(感覚絶対主義)そのものだ。(井戸)

Kazimir Malevich(カジミール・マレーヴィチ)
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