Donald Judd
Architecture
Hatje Cantz
Donald Judd(ドナルド・ジャッド)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=Donald+Judd&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
美術家の言葉(ドナルド・ジャッド)
http://www.b-sou.com/palw-Judd.htm
You Tube(Donald Judd)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Donald+Judd&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
The Chinati Foundation(チナティー・ファウンデーション)
http://www.chinati.org/visit/openhouse.php
P.24
Art and Architecture(アートと建築)
Donald Judd
→前回の最後のところで、ウィトゲンシュタインを引用しているが、(ジャッドは最初大学で哲学を専攻している)、ジャッドは結局、プロセスと結果から結論を導き出すという美学者達や美術批評家達の近代的形而上学、つまり論文として成立させる近代的形式(仮定・例示・論証・結論や起承転結等やオリジナリティという信仰に基づく解釈)ではなく、ジャッドのやっていることはプロセス自体が目的、結論であると言っている。つまり自分自身が作品をつくりその経験から次の作品をつくるそのプロセス(変化)がすべてだといっている。これは言わばポスト構造主義(フーコー、デリダ、ドゥルーズ)的な考え方に繋がるものだ。しかし考えてみれば、多くのアーティストはその自分のプロセスを探究しながら制作していて、それは僕自身肌で感じるし、それに仮定や結論を与えるのは美術批評家がいつもすることではある。そこに一種の「断絶」があるのは今では当然になっている。(井戸)
Donald Judd:一人のアーティストとして、私はプロセスの分析よりも優るというのは見当違いではない。実務家(現場の人)はいつも哲学者(思想家)をいらいらさせ得る。しかしぼんやりとした一般化(普遍化)の後、その哲学者(思想家)は実務家(現場の人)になり、そのエッジ(有効性、優勢)は失われる。この書類のいくつかの考えは、私がアートを勉強(研究)し始める以前から私に思い浮かんだもので、だからそれらはアートとははっきりと識別でき、多少哲学的で、まるで思考と感覚の間の分裂の誤った考えの様である。つまり、いくつかの考えはアートをつくる中で確かめられてきた。いくつかの考えはアートをつくる結果であるし、作品を存在させることができるものと思考と感覚との間の一斉の相互作用の結果である。思考と感覚の間の分割は身体と魂(精神)というキリスト教の一つのコース(一定の体系に基づいて連続するもの)の一部であり、家でひっかくよりも促進しやすい何処かにあるかゆみである。(?)しかし私の精神が私の頭の傷をずきずき傷ませる時、だから私は身体と精神はまさしくここに、今ここに存在すると思う。それらは一つずつ離れて行こうとはしないが、何処かで一緒になるわけでもない。私はアートのいくつかの問いを、第一に外部からではなくて、それらが私の作品の中で生じているものとして考えてみようと思う。アーティストは確かにアイデア(考え)やプリンシプル(原理、原則、主義)なしではなく、むしろこれらのものは、作品が発展(展開)される前に、事前に完全に公式化(定式化)されえなく、その後に単純に具体化される(形体を与えられる)。それを作るプロセスとそれを包含する(の全体を形成する)すべての使用がアイデア(考え)と質に影響を与え、提示し(ほのめかし)、強く主張する(強化する)ことはアートの本質的なものだ。アイデア(考え)と質とマテリアル(素材)と技術(手法)はお互いを築き上げる。赤はそれ自身の特別な質を持っているように感じる。作品の中でそれ(赤)はその質を保持し、そしてなおそれ(赤)はコンテキストによって改変され、拡大(増幅)される。その独特な質は改変を提示し(ほのめかし)てきたかもしれない。望まれたアイデア(考え)あるいは質は赤を要求してきたのかもしれない。
→思考と感覚の二分法(二項)的思考もまた近代的信仰に過ぎない。また赤はとりわけジャッドの好きな色で作品によく使われる。(井戸)