El croquis 145
Christian Kerez 2000 2009
Christian Kerez(クリスチャン・ケレツ)
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P.6
ルール(規則、標準、通例、物差し)への問い
Georg FranckによるChristian Kerezとの対話
Christian Kerez:あなたの最新の本「Architektonische Qualität」は、建築の質についてのものだ。以前の本「Mentaler Kapitalismus. Eine politische Ökonomie des Geistes」は、メディア時代における建築の知覚についてのものだった。今、あなたが質を尋ねたり、あるいは、善し悪しの間の差異を調べる時、あなたはメデイアを考慮しない。私が建築を見るところ、私はあなたが善し悪しの間の差異についての一般化(普遍化)を作ることができるとは思わない。私は世界をあるより良い場所にする普遍的に確かなモデル(方式、方法)を持っていない。あなたは建築の倫理(道徳)を定式化(公式化、考案)しようと試みているが、私のアプローチにはア・プリオリに(前もって考えられた、論理に基づいた)倫理的(道徳的)正当化(弁明)などない。それはただ、スペシフィックな(特定の)プロジェクトに関して、そして、その事実の後に、ケースバイケースでなされうるだけだ。
それがなぜあなたへの私の最初の質問が、なぜあなたは私のワーク(作品、取り組み)にまで興味があるのかという理由だ。
Georg Franck:矛盾のないテンション(緊張、均衡)はない。ある程度、それは私にとってもまた困惑(板ばさみの境地)だ。一方で、その本は如何に素晴らしいマナー(手法)が建築では重要かということを強調している。現今では、建築は都市のスプロール化(不規則に広がること)のコンテキスト(文脈)の中での建築であり、それゆえ他の建築との一団の中の建築である。都市のスプロール化をそれだけ悲惨な(みすぼらしい)ものにしているのは、ランダムにばらまかれた建物がお互いに何も会話するものを持っていないということだ。それらは建築的に目立つ外部空間の壁を形作ることに協力しない。つまり、それらはあるアイデンティティー(同一性)やある特徴を持つストラクチャー(構造)を形作ることに提携しない。そして、あなたの建築は、これらの社会的な徳(善)が関わっているかぎり、完全に非難の余地がないわけでない。しかし、私の本の別の論点、すなわち、建築的な質の正反対は、醜いものではなく気まぐれな(恣意的な、任意の)ものであるということに関しては、それは確かに非の打ちどころがない。美しさと醜くさはそれだけ隣接していて、それだけ緊密に関係しているから、それらは混同されやすい。つまり、今日醜いものは明日には美しく思われるかもしれないし、今日美しいものは明日には醜く思われるかもしれない。しかし、気まぐれさ(恣意的さ、任意)の印象があるとき、美との如何なる関係も抑制される。あなたの建築について私に興味を抱かせるものは、(実際鋭い、なぜならそれは証明を提示するから)、如何に有効にそれがこの質の明確さを実行しているかということだ。それは人が如何に気まぐれさ(恣意的さ、任意)を縮小することに取り組みうるかを明らかにする。もし人があなたのアプローチへのメソッド(方法、手段)があると言えるなら、それは、ある解答を見つけるために真っ向からデザイン(設計)の問題に取り組む代わりに、ほとんどまるでまったく解答がないかのように思われる程度まで、あなたはそれを悪化させるということだろう。事実、それがより悪くなればなるほど、それはより冷酷な(容赦のない)ものなる。建築における冷酷さ(容赦のなさ)は、原因となる、あるいは、論理的な必然性と同じものではない。それはあなたが別の解答が存在するかどうかさえも尋ねることができないことを意味する。