Alvaro Siza
Architecture writings
Skira
Alvaro Siza(アルヴァロ・シザ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=Shift_JIS&oe=Shift_JIS&q=Alvaro+Siza&btnG=%83C%83%81%81%5B%83W%8C%9F%8D%F5&gbv=1
You Tube(Alvaro Siza)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Alvaro+Siza&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
P.17
Siza:建築家は他の道具を使うこともできるが、そこでいくらかの損失なしでドローイングに代用できるものはない。まさにドローイングはドローイング自身の目的(意図)の為に他の道具の役割(位置、場所)で使用されえない。
有機的(組織的)構造を与えられた空間の探索や、存在するものや熱望されているものに対する考え抜かれた(計算された)アプローチは、最も論理的で参加(関与)された建物やその時の感覚やそれらからの感覚へドローイングが直ちに導入する(先導する)ことができる直観を通り抜ける(経験する)。
すべてのジェスチャー(身振り)、それはドローイングのジェスチャーも含むのだが、歴史を背負い、無意識の記憶を背負い、数えきれないアノニマスな(匿名な)叡知(知恵)を背負う。
訓練はおろそかにされるべきではない、さもなくばそのジェスチャーは萎縮するだろうし、それらに加えてすべてのものが萎縮してしまうだろう。
P.18
Siza:私はまだ披露されるものを見たことがないし、その中で披露されているものを完全には知りもしない。
もしそれが、これらの「描くことができない」人々に対して、特別な価値(効力)とドローイングの可能性を示し、もしそれがドローイングの喜びの表現でもあれば、それは十分だろう。
もしそれがあまりにも美しいものであるということになれば、それはますますけっこうなことだ。
Isolino Vaz
Siza:私は1949年(シザが16歳)の夏にIsolino Vazに会った。その当時ファイン・アートを研究するための入学許可は彫像のドローイングの試験によって得られた。私は彼のスタジオで徒弟(年季奉公)の期間に挑むようアドバイスされた。
Isolino Vaz
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Isolino+Vaz&lr=&um=1&sa=N&tab=wi
→シザもまたヘルツオーク(Herzog & de Meuron)と同様に(勿論ミースやズントーもそうだが)、その経歴の初期からアンビギュイティー(曖昧性、両義性)の重要性に気付いていたと思われる。シザはインタビューでキュビズムや(形態上の、流行した)デコン(デコンストラクション)の建築が好きだと言いながらも、決してそれらに回収されてしまわない。それはニュートラリティー(中性)を保持している。僕が意味しているここでのニュートラリティー(中性)とは、真っ白くしてガラスを使いミニマルなデザインにするリテラルな(文字通りの)透明性や軽さではない。また、形態的なまたは意味的な、いわゆるデザイン・コンセプトとして説明され尽くしてしまう(よってすぐに消費されてしまう)ものでもない。古い学校や工場を改修しギャラリーにした時や、何気ない田舎の小屋が持つものであり、デザイン(計画)することによって立ち現れる「あざとさ」とは対照的なものであり、むしろ、ナチュラリティー(自然性、本質性)に近いものである。(井戸)