Gordon Matta-Clark
Art, Architecture and the Attack on Modernism
Stephen walker
I B Tauris & Co Ltd

Gordon Matta-Clark(ゴードン・マッタ=クラーク)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Gordon+Matta-Clark&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
http://en.wikipedia.org/wiki/Gordon_Matta-Clark
YouTube(Gordon Matta-Clark)
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P.ⅺ
Preface(序文)

「ある一つの思想の基礎的な土台は他者の思想なのであって、思想とは壁の中にセメントで塗り込められた煉瓦なのである。もし思索をめぐらす存在が自己自身を振り返ってみるときに、一つの自由な煉瓦を見るだけで、この自由という外見を手にするためにその煉瓦がどれほど高い代価を支払っているかを見ないとすれば、それは思想によく似てはいるがその擬(まが)い物にしか過ぎないのである。なぜなら彼は手を加えられないまま放置されている空地とか、残骸や破片の山積みを見ようとしないのだから。しかし実は彼は、臆病な虚栄心のせいで、その自分の煉瓦を後生大事に手にしたまま、そのような空地や残骸の山に遺棄されているのである。
 
寄せ集め、組み立てる煉瓦職人の仕事こそ、最も重要なものである。だから一巻の書物の内で、隣接するさまざまな煉瓦のほうが新しい煉瓦よりも、つまりその本がそうである新しい煉瓦よりも見えにくいということは、あるべきではない。読者に提案されているものは、実際一つの要素ではありえず、それがそこに挿入されているような総体である。つまりそれは人間の手によって集められ、組み立てられた集合体であり、建造物である。そしてそれらはただ単に破片の山積みであることはありえず、〈自己意識〉なのである。」

ジョルジュ・バタイユ「本書はどこに位置づけられるか」(注1)

フランスの思想家ジョルジュ・バタイユからの一節でゴードン・マッタ=クラークの本を始めることは、明らかに、新しくも驚くべきことでもない。幾らかの高名な著者は、マッタ=クラークのワーク(作品、取り組み)を解明するためにバタイユの思考を使いながら、あるいは、アートと建築における現代の論争のためのバタイユの関連性(今日性)を明らかにするためにマッタ=クラークのワーク(作品、取り組み)を使いながら、この結び付きを享受してきた。(注2)
 しかしながら、ここで煉瓦職人や組立工の仕事を「賞賛」したり、そのアンサンブル(総合的全体)の重要性を強調しているバタイユの建築的な類推を読むことは、おそらく風変わりなものとして、バタイユやマッタ=クラークのワーク(作品、取り組み)とそれらの既によく知られているものに一撃をくらわすかもしれない。マッタ=クラークとバタイユは一貫して建築にクリティカル(批評的、批判的)ではなかったのか?確かに、マッタ=クラークは彼の建築へのドラマティック(劇的)でフィジカル(物質的、身体的)な「アタック(攻撃)」で最も知られているのではないのか?見たところはそうらしい。それなら確かに、彼のワーク(作品、取り組み)は反-建築的だったのか?いいえ。
 1978年のマッタ=クラークの死以来、彼のワーク(作品、取り組み)は美術家や建築家や批評家に重要な影響力を長期にわたって持続的に働かせてきた。今、彼らの制作物の後の世代、彼のプロジェクトはまだ安易な分類を巧みに避け、美術的で建築的なワーク(作品、取り組み)の製作と受容(感受)に提示される問いを立て続けている。

P.ⅻ
彼のプロジェクトはしばしば「デコンストラクティブ(脱構築的)」建築の一種の模範を明示するために使われているが、この解釈に反対する声も聞かれうるし、その声はフォルマリズム(形式主義)を超えて探求し、あるいは、センセーショナリズム(感覚論)はマッタ=クラークのワーク(作品、取り組み)の幾つかと結びつけられうる。そのような異議の一人は、如何に彼自身のゴードン・マッタ=クラークのワーク(作品、取り組み)への興味が変わったのかを詳しく述べたレム・コールハースである。

コールハース「私はマッタ=クラークに魅せられた。私は彼はルーチョ・フォンタナがキャンバスにしたことをリアルな(現実の)世界にしていたと思った。その当時、彼のワーク(作品、取り組み)で最も衝撃的で刺激的な面はおそらくバイオレーション(侵犯)の魅惑だったのかもしれない。今私はまた、彼のワーク(作品、取り組み)が、アブセント(不在)の、ヴォイド(空隙、欠如)の、エリミネーション(除去、削除)の、即ち、アディング(足し算、付加)とメイキング(作製、構成)の、とても強くとても早くからの幾らかのパワー(力)の実例だったと思う。」注3

それが現在のワーク(作品、取り組み)への道をひらいているとはいえ、マッタ=クラークのワーク(作品、取り組み)の「コンストラクティブ(建設的、構成的)な」側面についてのコールハースの注目は普通じゃない。バタイユの言葉を使い続けると、この本はマッタ=クラークを「煉瓦職人」として扱う。つまり、その前提は、たとえ彼が取り去っていることが明白であったであろうとも、マッタ=クラークはアセンブル(集めること)を「した」ということであり、彼はいつも「建てて」いたということである。彼はそれを真剣に捉えていたけれども、一体全体どうしてマッタ=クラークは建築に批判的(批評的)なのか、彼は建築とともに取り組んだのか、あるいは建築に反して取り組んだのか、この取り組みが、彼の仕事全部を通して遭遇されうるのか、コンストラクティブ(建設的)で深遠で、破壊的でなく、あるいは表面的(うわべ的)でないのはどこで判明するのか、議論される。

P.181
注1:ちくま学芸文庫 ジョルジュ・バタイユ著 湯浅弘雄訳「宗教の理論」P.9~P.10
注3:ジョン・ライクマン、「大きいことを考えること(ジョン・ライクマンとレム・コールハースの会話)」、1994年12月、「Artforum」P.99

→ジョン・ライクマンの日本語訳書籍は「ミシェル・フーコー 権力と自由」岩波書店である。シュルレアリスムやバタイユの入門書を読んでいると相互に影響し合っているのだが、勿論、レム・コールハース(奥さんのマデロン・ヴリーゼンドープはシュルレアリスムの画家)もその影響が強い。(井戸)

Georges Bataille(ジョルジュ・バタイユ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A6
Rem Koolhaas(レム・コールハース)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Rem+Koolhaas&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
Lucio Fontana(ルーチョ・フォンタナ)
https://www.google.co.jp/search?q=Lucio+Fontana&hl=ja&prmd=imvnsb&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=JBWbUJDlHc-UmQXn8ICQBA&ved=0CAoQ_AUoAQ&biw=1505&bih=897
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%8A
Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC