Archi Review 第14回
R・ヴェンチューリ「ラスベガスから学ぶこと」
2004年5月15日 井戸健治
1、 R・ヴェンチューリの代表作と現代建築家への影響
1961年 ギルド・ハウス 1962年 ヴェンナ・ヴェンチューリ邸(母の家)
1968年 ニューヨーク州立大学バーチェス校人文科学教室
1972年 フランクリン・コート ベンジャミン・フランクリンの家の輪郭
1976年 バスコ・ストア改築 コミュニケーションの建築
1977年 ベスト・プロダクツ社「シェッド」の概念
     アンリ・マティス風の大きな花模様の「壁紙」
     コミュニケーションの建築
1977年 ウエスタン・プラザ「入れ子構造」(都市の中の都市)、ハードエッジの空間
1978年 科学情報研究所本部事務所
・    ニューティリング&リーデイク(ロッテルダム)
    「ヴェーンマン印刷所」のスーパーグラフィック+詩の立面
    ザウアーブルック&ハトウン(ベルリン)のグラデーションの立面
    アバロス・エレロス(マドリッド)「AH house」の「花模様」の立面
    アクタール・アルキテクトゥーラ(バルセロナ)
    「Mユhouse」のファンション誌の様な立面
    NJIRIC+NJIRIC(クロアチア・ザグレブ)「マクドナルド・ドライブイン」
2、「ラスベガスから学ぶこと」
あひる 空間、構造、プログラムからなる建築のシステムが、全体を覆っている
象徴的形態によって隠し込まれ、歪めら
れている場合。この種の彫刻になりかかった建物のこと。
装飾された小屋 空間と構造のシステムがプログラム上の要請に無理なく従い、
しかも、装飾がそれ自身他のものと無関係にとり
付けられている場合。
あひるの堂々たる象徴性→近代建築は自らあひるとなってしまった。
装飾された小屋の平凡な象徴性
リサーチという手法→設計対象のコンテキストに対して主観的な解釈をする。
→設計の根拠とする。
3、「建築の複合と対立」
モダニズム→工業イコノグラフィー
ヴェンチューリ→建築はイコノグラフィーだ
ポスト・ポストモダニズムは、工業イコノグラフィー・リバイバルだ
イコノグラフィー=記号=コミュニケーション
ハイアートとローアートの区分の解消→ハイアーキテクチュアー?とローアキテクチュアー?の解消
コルビジュエのサヴォア邸に見る曖昧性やつじつまあわせ→状況証拠的に論じる。
結局、当時60年代の厳然としたモダニズムの規範がまだ存在していた時代では、意味があった。
4、アメリカ
モダニズム→工業イコノグラフィー
ヴェンチューリ→建築はイコノグラフィーだ
ポスト・ポストモダニズムは、工業イコノグラフィー・リバイバルだ
イコノグラフィー=記号=コミュニケーション
ハイアートとローアートの区分の解消→ハイアーキテクチュアー?とローアキテクチュアー?の解消
コルビジュエのサヴォア邸に見る曖昧性やつじつまあわせ→状況証拠的に論じる。
結局、当時60年代の厳然としたモダニズムの規範がまだ存在していた時代では、意味があった。
しかし、それも今となっては、「すべての建築はイコノグラフィーだ」
そう言う見方もできるということでしかないのでは?
少なくとも、モダニズム教の妄信的信者からの社会復帰への特効薬と
なったのであろうが・・・
逆に、現在はある意味の「開き直り」か「価値相対主義」あるいは、
スタイルまたはファッションとしての「モダニズム」の垂れ流しか?
イコノグラフィーだけでなく、コンポジションもミニマムもそれ自体も
コミュニケーション的要素を持つのではないのか?
5、ポップアート的手法
ありふれた既製品や窓や建材を少し異化して使用することにより、
その部材が全体としての建築に対しての役割(影響あるいは意味)をずらす。
ギルドハウスの窓:すでに他の人が為してくれた地点から出発しようとした。
窓はごくありふれたものである。・・・ポップアートの主題と同様、この窓は、
形の変型、スケールの変化、使用法の転化によって、当り前ではなくなった
当り前のものなのである。
6、R・ヴェンチューリとレム・コールハースまたはフランク・ゲーリーまたはジャン・ヌーベル
「デコレイテッド・シェッド」→内部と外部の断絶・つじつま合わせ、
機能主義に商業的機能主義を追加
「ビッグネス」レム・コールハース→内部と外部は関係なし
「ジャンクスペース」レム・コールハース→ゴミであふれた現実に対する
開き直り。理論と実作がリンクしてないのでは?
ハリボテケンチク→ゲーリーへ
イメージ→ヌーベルへ
ヴェンチューリは意図された曖昧性や対立性を作り出し、コールハースは
ロシア構成主義的形態をとっていく。個人的趣向からは誰も自由にはなれない。
結局、宗教と同じで、すがるべき教典(ケンチクのモダニズムのように)が、
現在でも生き続けているし、それを無視すれば個人の趣向しかない。