Archi Review 第12回
「現代建築とアート」
2004年2月22日 井戸健治
1、ヘルツォーグ&ド・ミュロンの言説と現代アートの主題との拾い出し
ヘルツォーグ&ド・ミュロン完全作品集1「隠された自然の幾何学」
3「強(フィルミタス)について」
「ヴァーチャル・ハウス」より
・ 建築的探求の方法とは、認識と意味を探求する。隠されたもの、自然と一体となる何か、自然のうちに起こっている何かを探求する方法。自然、「システム」の複雑性(→ヨーゼフ・ボイスの世界観からの影響か?)
・ 心象的類推作用を利用し解析し建築的実在へと再構成すること。内部の類推で外部を構成。(→これは暗示であって、ロッシの類推的類型とはちがうが、作品で表れる典型的建築形態のイコンはロッシを引き継ぐもの、その定数としてのイコンは守りながらも異なる様態(形態ではなく)を作り出すのに、可変項として現代アート的着眼が使用されるのでは?)(暗示→リコラ・ヨーロッパ工場では内部からは外部の植物の暗示)
・ 「分割」のプロセスでなく「集積」のプロセス(→ジャッドのように、部分と全体、あるいは空間が不可分、建築的なコンポジション的発想ではなく、素材が集積されるのみ。)
・ 建築表現の正確さは、建築表現以外のイメージを思い起こさせ、可視的なものと不可視的なものの両方を喚起する表現方法による。(→ミニマリズムの様に表現を限界まで制御することにより、違う様態が浮かび上がる。概念が明白にされる。イリュージョンンを廃しようとしたモダニズムが行き着いた先のミニマリズムによる新たな別のイリュージョンの発生が建築にも起こる。)
・ 建築の実在は、それ自身の実在を想像すること。絵画や彫刻の自立した実在と同等、実在とは物質的側面ではなく「建築の精神的な特性、精神的な価値」である。(→ポストミニマル、コンセプチュアル・アート)
・ 素材は、芸術作品として用いられる場合に、存在論的に最高の状態。実用だけで使用されると存在論的価値はなくなる。
・ 建築は一つの場に集中する複雑な感覚をコミュニケートしなければならない。「強」という意味は、建物のヴォリュー厶と我々自身の肉体という二つのボディーが、いかに我々の身体と魂において触れ合うかということ。→(身体性、感覚)
・ 「強」は物質的な固まりを通して我々の感覚と交信する実体のない精神的な特質。→(コンセプチュアルアート)
・ 非物質世界は物質世界の一部、ヴァーチャルとリアルは相互補完的、一方が他方の存在の理由となる。ヴァーチャルな領域に踏み込むために建築の実体的物理的様相を高めることに挑戦する。
2、アーティストを中心として
・ ヨーゼフ・ボイス
タタール人、社会彫刻、エコロジー、ユーラシア、「すべての人が芸術家だ。」エントロピー、ミヒャエル・エンデ、ルドルフ・シュタイナー、生命主義、人智学、シャーマニズム、アクション、フルクサス、緑の党、マルチプル、コヨーテ、兎、鹿、ガラスケース、カソリック
「フェルト、脂肪、ブラウン・クロイツ」
フェルトの使用は、自身は飛行機墜落時のタタール人にフェルトと脂肪によって自身の命を救われたこと、また作品としては、ビル工事の騒音に悩む画廊での展示において、「消音彫刻」として壁・天井に円筒形のフェルトが張られたこともある。
→シグナルボックスの電磁波を防ぐための銅の巻き込み。
→ブラウン・クロイツ(赤褐色の十字架)がストーンハウスの構造壁とみるのは短絡的か?
「カプリ・バッテリー」
1985年、レモンという自然のものと酸と銀による電流の発生という科学との結合がオブジェとなる。また1000時間後にバッテリーのレモンを交換するようにという指示書付き。
「鉱物界、植物界、動物界、人間界」
鉱物界→「ストーンハウス」「ドミナス・ワイナリー」の石、ガラスの結晶のような「プラダ東京」「ロッセッティ構内の病院医薬研究所」、建築の「ファサード」という概念ではなく、単体あるいは塊としての「鉱物としての建築」。 植物界→リコラ社倉庫の植物のモチーフ
・ ドナルド・ジャッド
「本質的思考が作動した際には(建築も)アートと化す場合がある。」 比例、等間隔、数列など、狭義の人間性から離れた根拠から導きされたオブジェクトの寸法や、空間との位置関係、工業製品のようなオブジェクトは、その厳密さの上に、異質な概念的空間を発生させる。 3次元を想起させるイリュージョンではなく、宗教性のない空間性、崇高な感じをつくるということ。アウラ? メタファーや物語性を排除、物自体の存在感が大きくなる。とともに鑑賞者の物に対する認識の問題も大きくなる。
→H&deMの建築のベースとなっている。
建築の表層とは何か?機能を表すものか?自由なファサードか?コンポジション(構成)か?構造的合理性みせるものか・透明性か?内部外部を暗喩するものか?イコンによるものか?あるいはサインボードか?あるいは記号か?象徴か?記号または建築言語の寄せ集めか?昨今のファッションとしての生地(外皮)か?
・ アンディー・ウォーホール
機械的再生産、高等芸術と大衆社会、個人的様式の「独創性」に対する疑問、 誰かが撮ったあるいは描いたイメージを加工し、提示する。イメージの反復、イメージのメッセージ性は剥奪される。 →リコラ・ヨーロッパ工場のファサードのポリカーボネートのシルクスクリーンはカール・ブロスフェルトの写真。  作家性とそこに介入してくる他者性、意味を帯びていたイメージが意味を帯びない壁紙への変換 →エバースヴェルデ高等技術学校図書館ではトーマス・ルフが雑誌から選んだ写真を使用。
・ゲルハルト・リヒター
(絵画の可能性の実験) 画面を削ったり、かすれた絵具を重ねるという、偶然性の導入で立ち現れるイリュージョン →リコラ・ヨーロッパ工場の雨垂れは、建築の立面への偶然性の導入。
・ダン・グラハム
鉱物としてのガラスは同時に、自然現象(天候)により変化するハーフミラーとしての物性。
・ ゴードン・マッタ・クラーク
「アナーキテクチュア」
・ リチャード・セラ
「シフト」
スタイル(流行)として広がった、安っぽいミニマリズム(シンプルーイズム)、安っぽいエコロジー、安っぽい場所性(地域性)ではなく、観念的な(理想的イデオロギー)モダニズム(絵画にしろ、建築にしろ)に対して、社会性や物質(鉱物、動物、植物、人間)への拡張(ヨーゼフ・ボイス)や、ミニマリズム(還元された物質から生じる空間性、モダニズム以前とは異なる新たな空間性と観察者の思索)、ランド・アート(自然気象)やアルテ・ポーヴェラ(生の素材や生き物)への拡張との呼応を可変項(多様性)として持った類推的イコンの建築。よって平面プランは取り立ててアヴァンギャルドを装わない。(最近は変わってきているが・・・)
3、ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」から
彫刻の論理はモニュメントの論理と切り離すことはできない。再現=表象となる。
モダニズムは無場所性、故郷喪失、場所の絶対的欠如、自己言及的→ノマド的
しだいに、「そうではないもの」否定によってしか定義されないものになる。
モダニズム彫刻→建築でなく、風景でないもの
風景であり、建築であるもの→迷宮や迷路、日本の庭園
ポストモダニズムの彫刻(複合的)
彫刻 →
場所―構築
→ロバート・スミッソン「部分的に埋めた薪小屋」、ロバート・モリス「観測所」、
 メアリー・ミス「境界線/亭/おとり仕掛け」
印付けされた場所
→ロバート・スミッソン「螺旋状突堤」、「ユカタン半島でのミラーの転置」、
 マイケル・ハイザー「ダブル・ネガティブ」、リチャード・ロング
 写真の使用
公理構造
→建築の現実空間に対する何らかの干渉が行われる。所与の空間の現実の中に、
 建築的経験の公理的諸特徴 ―開放性と閉鎖性の抽象的諸条件― を写像するプロセス
 ソル・ルイット「不完全な透かしキューブの122のヴァリエーション」、ナウマン「ヴィデオ回廊」
 ロバート・モリスの鏡の使用
H&deMの建築は、場所―構築に近づこうとしているのではない