例えば、自分の意見(むしろ僕の場合は感覚という言葉で表現するしか浮かばないんだが)を言うときに、僕の場合は小心者のせいか前提とする言葉の定義を延々と話したあと、「僕には結局ワカラナイんです。」と言う風になってしまうらしい。(僕は本日、食事会に招待された揚げ句に酔いの醒めないまま自己分析にハイル・・・)
僕が感じている感覚を説明するために誤解を防ぐために前提条件を共有したいという欲望が先行する。かと言って自分の心の核心を表現するための仕方を心得ていない・・・。
世界とは最新物理学を紐解くまでもなく未知のものである。
未知のものはおそらく僕が生きている間は未知のままである。
例えばマクロのマクロ(宇宙の上の空間)を人間は想像できるか?
スケールという概念が存在する以上宇宙以上のスケールが存在するはずだ・・・。
ミクロのミクロを人間は想像できるか?
原子を構成している物(宇宙と呼べるのか?)の元素を人間は理解できるか?
僕は僕の価値観を信じれない。おそらくそれは今の価値観が多かれ少なかれ影響しているから・・・。
感覚を頼るのみである。
感覚とはなにか。
それは「好き」か「嫌い」であると仮定しよう。
あるいは「面白いか」「面白くないか」と仮定しよう。
ここであなたは言うだろう。その基準こそが、現在の某かの価値基準の影響を受けているのではないかと・・・。
しかし、僕は答える、答えなどないと・・・。
僕が影響を受けている価値の中の孫悟空だと諦めるしかないと・・・。
そこにあるのは現実という名の仮定の信仰でしかないと・・・。
しかし、その信仰が現実である。おそらく僕は信仰のもとに夢/現実を見るであろう。
何かをつくるということあるいは生きていくという事は、僕にはそういう事を末端だがしかし感覚的に触れさせてくれる媒体なのかもしれない。
それ以上望んでもしかたがないのだ・・・。
本当だろうか?
また自分を疑う?