Richard Serra:Writings Interviews
The University of Chicago Press
Chicago and London

Richard Serra(リチャード・セラ)
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美術家の言葉(リチャード・セラ)
http://www.b-sou.com/palw-Serra.htm

Peter Eisenman(ピーター・アイゼンマン)
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P.142
PE:しかし、建築が使用あるいは芸術上の慣習の外部にそれ自身の内的必要性を推し進めることができないということは、私が考えるに、それ自身の内的必要性の現実化の可能性を正確に提示する建築の狭い見方である。なぜなら建築において部屋や廊下がくっいてできた集まりであることや使用に近接していることやシェルター(雨風をしのぐこと)は必要な要素だからである。このような必要性は、彫刻には存在しないが、私の「サイト」を据えるものである。私にとってあるサイトへの挑戦は、使用に従って部分を一緒に積み重ねていくことに内在する制限を乗り越えることであり、使用の外部にある内的必要性をつくり出すことである。彫刻も建築もそれらの内的必要性を見せようと試みる。だが、ある者が彫刻と建築においてこのことを如何に成し遂げるかということはとても違っている。これはなぜ私が建築家で彫刻家でないかということである。

P.143
RS:私が建築について不思議に思うことは、人々がその内的構造の重要性を「知覚的に」あるいは「触覚的に」身体的に読むかどうかということである。

→リチャード・セラのオブジェクトに対する知覚や触覚に対する興味は、マレーヴィチに影響されているのではないだろうか。マレーヴィチに言わせれば、白い地(無)の中にある四角い黒が表す感覚が芸術の真の価値であるということだったが、セラの場合はその白い地が空間でその黒い四角が鉄の塊あるいは壁などのオブジェクトではないだろうか。ジェームズ・タレルの場合はインタヴューの中でマレーヴィチについて言及していたが、どうなんだろうか。(井戸)

PE:人々が建築を知覚的に経験するか否かをあなたが重要視しすぎることを私は理解できない。とりわけなぜならあなたはマンハッタンのダウンタウンにあるSt.John’s Rotary Arc(1980年)に対する歩行者や車のドライバーの異なったリアクションについて述べていたからだ。なぜ、あなたは建築に観察者の理解に関して同じような区別を許すことができないのか?

RS:アートフォーラムのテキストの中で私達はその「観察者」はフィクション(作り話)だということから始めた。基本的にこれは私の彫刻に対する「私の」応答だ。詩や実験映画に対していないように、絶対的に(無条件に)彫刻に対する観客はいないことは私は知っている。しかしながら人々に彼らが欲しいものやおそらく彼らが理解しているぐらいの必要性を与える制作物に対する多くの観客がある。マーケティングはこの前提に基づいている。
只今の建築に関してだが、沢山の人々は建てる必要性を持っていて、沢山のクライアントが「直接的に関連する(実際的な意味のある)もの」として考慮に入れられたものに関心がある。これはクライアントと建築家両方が批判と如何に奉仕するかというアドバイスを受ける状況を創り出す。というのも彫刻あるいは詩への観客がいないからであり、誰も外部からの巧妙なあやつりに抵抗することを要求しないからだ。反対に人がその人の言語を裏切って商業的興味に売れば売るほど、ますます権威の中でそれらがその人の努力に報いるであろう可能性は大きくなる。建築家はこの行為者の為の正当化付けるフレーズ(ことばづかい)を持っている。彼らはそれを「適切な」とかあるいは「妥協して処理した」とか呼ぶ。