Richard Serra Sculpture 1985-1998
The Museum of Contemporary Art,Los Angeles
Steidl,Gottingen

Richard Serra(リチャード・セラ)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=UTF-8&q=Richard+Serra&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Serra
You Tube(Richard Serra)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Richard+Serra&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
美術家の言葉(リチャード・セラ)
http://www.b-sou.com/palw-Serra.htm

P.192
RS:私はそれに対する何か他のものが存在していると本当に思っている。私は、あるポイントでは、それ自身に興味を持っていて関係している問題あるいは経験あるいは感覚(知覚、感動)にあなたがより開かれて、あなたがそれの後について行く強制力を感じると思う。そして私はこれらのものはあなたがそれを通して見なければならないものであると思う。なぜあなたは他の時よりもある時により開かれるのか?私は本当に知らないんだ。

RS:とても単純なレベルでは、これらのピース(作品)は歩くことと見ることについてのものである。そして、もし何かコンテント(内容、意味)がすべて明かされようとするならば、あなたを取り囲んでいるサーフェス(表面)のすべての部分にあなたは注意を向けなければならない包まれた空間の「中に」いることについてのものである。その歪みの中の作品はあなたにそれを正確にするように求める。それをしないわけにはいかない。あなたがこれらのピース(作品)の中へ歩いて行くと直ぐに、あなたはそれらのフィジカルな(自然の、物質的な、物理的な、身体の)存在との対話へと入って行く。あなたは、進行していることを認識しようとしなければならないことによるあなた自身のビジョン(視覚)やあなた自身の行動との共犯者になる。あなたがそれらを見ている時、それは本当に理論的な情報を持つことを助けはしない。

RS:誰かが私に尋ねた「おお、私は床の上に楕円があり、頭の上ではその床の楕円と直角になっている楕円があることを理解した。ああ、もし私が断面図を取り上げたら、どうなってたんだろう?」と。私は言った「ええ、まさにその楕円を回転させた」と。これらのことばの中で考えられる問題は、それはあなたがそのピース(作品)を「経験する」方法ではないということであり、それは誰かが幾何学的な読み出しに視覚的に基づいたそのピース(作品)を「ダイアグラム(図式)化」しようとしているということだ。そのピース(作品)のあなたの経験はそれとは全く違った他のものである。

DS:あなたはむしろ内部からのそのものへの経験を強調してきたが、それらの周りを歩き回ることもまた驚くべきことではないですか。

RS:私はあなたがそれらの周りを歩き回るとき、あなたは決してその全体の感覚を持たないと思っている。あなたは動いているプレートの60フィート(約18.29メートル)周りを物理的に(身体的に)歩き回らなければならない。カーブしたヴォリュームをそれがまるで押し出したかのように、あるいはあなたから離れて傾いているかのように捉まえることは、外部からは不可能である。そのピース(作品)は決して全体のフォーム(形)としてそれ自身をオーバーには振る舞わない。内部からはあなたを取り囲んでいるその容積の形を理解することはいくらかは容易であるように思われる。

DS:それは興味深い。私が外部にいたときに私はそれらの周りを動き続けがちであったと私は言うことができると思っている。人はいったん中に入ると、静止したままになる。

RS:ええ、おそらくあなたが頭をぶつけた後だからだろう。あなたはその中心にじっとしていたのですか?あるいは長軸の端ですか?あるいは短軸の端ですか?

DS:違う地点で、しかし殆ど壁に向かってだ。しかしそれぞれの異なった地点で私は立ち止まり見てみた。しかし人が外部にいるときは、人は回転し続けがちであったと思う。

→芸術の還元(原理、根源)主義は、ロシア(ヨーロッパ)のマレーヴィチとアメリカのグリーンバーグに帰するものだと思うが、マレーヴィチは芸術の根源(最後に残るもの)は「感覚」にあるとしたのに対し、グリーンバーグは「形式(論理)」にあるとしたのだが、明らかにセラは、マレーヴィチの流れを引き継いでいると思われる。(井戸)