El croquis 83 Peter Eisenman 1990-1997

Peter Eisenman
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Alejandro Zaera-Polo
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P.6
P.E.:その質問は結局「どういう理由で結果が判断されるのか?」ということだろ。

A.Z.P.:しかしそれがポイントだ。「いかにして私達は結果を評価できうるのか?もしそのプロセスの始まりにあなたが意図的でないならば、あなたのマシーン(機械)は直接関係するなにものもつくり出さないだろう。いかなる因習や経験を避けた単なる事実を越えてこれはいかにして面白くなるのか?私達の類型的で技術的で美的な因習の中では構築しえなかった何かを構築する正確な意図を伴ったマシーン(機械)をセットすることに私はより興味がある。

P.E.:あなたはまったく偶然にマシーン(機械)の概念を言及している。あなたが言及しているマシーン(機械)はドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」の欲望のマシーン(機械)であると私は確信している。機械的の問いはこのインタヴューのコンテキストの中では重要になる。なぜなら先ず最初にそれは英語で同義語がないからだ。ドゥルーズ=ガタリの言葉の中でさえも、それは機械的あるいは機械論的であることを意味していない。(むしろおそらくこれらの反対でさえ意味しているかもしれない。)同じようにそれは技術や技術的プロセスも言及していない。おそらく私が知る最善の定義はフェリックス・ガタリ自身によって「On Machines」と題されたエッセイの中で記されている。ガタリは言う「この新しいマシーン(機械)の概念は性質的にそれ自身を区別することと存在論的に複数状態の上に現れてくることと関係していて、それはマシーン的ベクトルの創造性のまさに拡張である。」

→実在するのは、個人とか物とかいったばらばらなものではなく、欲望と物が一体となったつながり(運動するつながり=機械)が実在するという考え方。これまでの「実在」のイメージをまったく変え、機械がブンブンと音をたてて運動するようなイメージでとらえたもの。(図解雑学 現代思想 ナツメ社 P.186,187より 井戸)

P.8
P.E.:このような感覚で、私が使用するプロセスは、多くの内在するものあるいはその起源において体現された意味の状態を不安定にしあるいは置き換えようとする機械的さである。例えば機能的あるいは類型的ダイアグラムから始める代わりに、私達は液晶や脳波機能のダイアグラムから始める。それらの形が内在的な意味を持つ間、これらの形は外部のベクトルによって変形させられ、結果として生じる形は起源のダイアグラムと類似点を持つかもしれないが、これらの形は起源の形ともあるいは特定の建物にある機能性の形とも関係がない。ガタリは言う。「マシーン(機械)はナチュラル(本来の、手を加えられない、形而下の)たりえない。それらは既に欲望(あるいはあなたの言葉で言えば、意図性)を持っていて、それは表現の異なった意味のベクトルになることを生み出すだろう。」

Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
Pierre-F・lix Guattari(ピエール=フェリックス・ガタリ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%BF%E3%83%A