京都造形芸大に荒川修作さんのレクチャーを聞きに行く。
以前、同大学の小野さんにお誘いいただいたからですが、面白かった。
荒川さんの「建築する身体」にも出てくる言葉だが、オートポイエーシス、アフォーダンスの話だったと思う。(アフォーダンスについては最近調べていたのでなんとなくわかるんだけど、オートポイエーシスがよくワカラナイ。)
荒川さんの言葉を借りれば「ドライな有機体」を考えるということか。
僕はもともと自身の世界の捉え方が、いわゆるアフォーダンスと呼ばれるものに近かったので(正確には違うが)、結構すんなり聞けた。
「我思う故に我在り」とか「理性」あるいは「感情」とか(近代西洋哲学の前提)それって「太陽が東から昇って西に沈むから、太陽が地球の周りをまわっているんだ。」と同じように「考えれるから存在するんだ。」ということで本当かよと学生のころから感じてましたから・・・。
かといって超弦理論のコンパクト化された6次元(M理論では7次元)もね、本当かな~って感じしますけどね。(いくらエレガントだからといってもね。)
質問されていた学生さんは建築の話じゃないと思っていたようですが、建築ってどこからどこまでなんですかね?そんなものに境界なんてあるんでしょうか?自身の世界の捉え方がたまたま建築という媒体をかりるだけなんだと思うんですけどね。(いかんいかん「自身の世界の据え方」ということは「自分の意志」が存在する前提の言葉になってますね。)
http://kirara.cyber.kyoto-art.ac.jp/course/kenchiku/kenchiku/al/index.html