ベッヒャー派の写真集をここ数年で買い漁っている。
理解したい、つまり、解釈したいという悪癖が出てくる。
何度も写真集をめくることをすれども、やはり、批評家の解説から作品に近づいていくのが僕の常である。そして納得と違和感を感じながらまた写真集にもどる。
ソンタグの反解釈とは反対の行動である。
批評家にとっては「言葉」(言葉で紡ぎ出す論理的な言葉の領域)が作品である。「批評」というのも「作品」なのである。批評を読むとは、その批評家の「作品」を鑑賞することなのだ。
その「批評」に、作品がその本来の「作品」であることをしめす「批評」であるべきだというのは、ある意味では「正しく」聞こえるのだが、同時に(逆に)「作家」にその「作品」について、どうしてその形や色を選んだのかを「言葉」で明確にするように求める、あるいは明確に「すること」自体と同じぐらい一見「正しく」聞こえてしまう。
建築の世界にいるとそこがいつも引っ掛かる。なぜ「面白いから」というそれだけだけれど全てを覆い尽くす「衝動」が、「言葉」の世界に馴染まないからといって暗黙のうちに(意図的に)ウヤムヤにされ、あるいは、暗黙のうちに(意図的に)「曖昧で核心をつかないもの」とされるのかだ。
これは、宗教の問題だと思っている。宗教を持たない人はいない。宗教をもたないという人も例えば、理性(=反理性)、社会(=反社会)、人間(=反人間)、環境(=反環境)等々という宗教(宗教と呼ぶ以上の適当な表現がみつからない)を持っている。どの世界にいても、おそらく無意識のうちに「正しい」とされるこの宗教は、その個人の中で極端に排他的である。
気持ち悪いと感じると同時に、無意識では心地良いんだろう。
といいつつ清水穣さんの
「永遠に女性的なる現代美術」と

「白と黒で 写真と」を横断順番バラバラ読みしている。