今日は池田昌弘氏の「小住宅の構造」を岸和田への往復の電車の中で読み終える。
池田さんには独立前に担当した名古屋の住宅を見ていただいた時にお会いしただけだが、昔のロッカー(パンクではない)みたいな風貌(黒髪混じりの金髪の長髪を後ろに束ね、たしかジーパンをはいていたかな)で、一言「構造は普通だけれどバランスがいいですね。」と言われただけなんだけれど、ああ、感覚で捉える人なんだなと思った記憶がある。
池田氏は自身をインテグリスト(統合家)とよんでいるが、その時はこのひとは、建築家みたいなこと言う人だなと思った。その当時は建築家、構造家とかいう「言葉」を僕自身もわからないまま受け入れていたんだろうが・・・
よくよく考えると僕自身いま建築を設計監理する仕事をしているが、
たまたま僕が選んだ表現手段が建築であっただけであるので(もしかしたら小説をかいていたかもしれない。音楽はないけど)、本来「建築」とか「建築家」という「言葉」自体が先ず「はじめにありき」ではない。
だから、論理だけで組み上がっているものも楽しいのだか、一度それが了解されるなり後は解釈が優位に立ち始めるので、それもちょっと僕にはどうかなと思う。
かといって論理のないものが良いと言っているのではない。
何か胸のあたりにあるモヤモヤとした衝動が空間を思い巡らしたり、例えば壁に穴を穿つ時に大事にしたいなと思う時がある。
この本の場合、構造を通して組み立てていくことの「始まり」みたいなところをきっちり考え直していて(決して特別大風呂敷なことではなく、物を組み立てていくということのあたり前のことなんだけれど「構造」というこの業界で流通している「意味」や「イメージ」から少しだけ基本的なところに(原初的なところに)戻って考えているところが了解できる。
この本の性質上説明文と写真とかな計図で構成されているのはよくわかるが、個人的には部分詳細図(構造と仕上の取りあい)なんかを付けて欲しいと思った。
あと設備あるいは環境装置または環境(外部も含めて)も含めてインテグレート(統合)していくという一つの自己表現(建築)も(それなりにいいようにメディアで利用されている「言葉」であってもどれだけ個々人が取り組むかだけである)メディア(社会)批判している暇があるなら、もう少し真摯に取り組んでみようかと思う。