Hans Ulrich Obrist
Interviews
Volume 1
CHARTA

→このインタヴューは下記にも収録されています。括弧内のページは下記の本のページです。(井戸)

Rem Koolhaas & Hans Ulrich Obrist (Conversation Series 4)

Rem Koolhaas(レム・コールハース)
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS&q=Rem+Koolhaas&lr=&oe=Shift_JIS&um=1&sa=N&tab=wi
You Tube(Rem Koolhaas)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Rem+Koolhaas&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2
Hans Ulrich Obrist (ハンス=ウルリッヒ・オブリスト)
http://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Ulrich_Obrist
You Tube(Hans Ulrich Obrist)
http://jp.youtube.com/results?search_query=Hans+Ulrich+Obrist&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

P.514(P.84)
Hans Ulrich Obrist:「S,M,L,XL」の件に戻りましょう、あなたはベルリンはすべて記憶、喪失、空虚についてのものであると書いている。これは勿論リベスキンドが彼の建物の中心に空虚を保つ時の様に、彼が多く指し示した何かである。

Rem Koolhaas:建築としてベルリンの壁を見ることは私にとっては建築において如何にアブセンス(不在)がプレゼンス(存在、現前性)よりもより強度を持ちえるのかという最初のスペクタクル的(見世物的、はなばなしい)暴露だった。私にとって、それは形而上学的なセンス(意味、感覚)での喪失と必ずしも結び付けられているのでなく、むしろ有効性の問題とより結び付けられていて、そこでは私はベルリンについて最も顕著なことは如何に(そしてこれが私自身の建築に対する作戦行動であるが)完全な「ミッシング(あるべきところにない)」都市のプレゼンス(存在、現前性)あるいは完全に消された建築的な存在(実在)がそれにもかかわらず都市の状況と呼ばれうるものを生み出しているかということを私に示したかということであると思う。例えば深圳の中心は建てられたサブスタンス(物質、実質、実体)ではないがゴルフ・コースとテーマ・パークの密集体であり、基本的に建てられていないあるいは空虚な状態だ。

P.514(P.85)
Rem Koolhaas:そしてそれはちょうど10年前のベルリンの美しさだったし、それはこれらの広大な無のエリアを持っていたためにそれは最も現代的で最もアバンギャルド(前衛的)なヨーロッパの都市だった。

Hans Ulrich Obrist:ベルリンに着陸する時が最も美しかった、都市の織物の中のこれらすべてのギャップ(間隙、空所)と穴を伴って。

Rem Koolhaas:それは美しいばかりではない、むしろそれはプログラム的な潜在性(可能性)をも持っていて、都市に住む潜在性(可能性)は異なって類い希でユニークな力を表現する。勿論そのアイロニーは建築が建てられることが正当な建築ではないということばかりでなく、それはとにかく建てられるということである。それはその空虚と共に生きてくることができた、そしてその空虚を組織的(意図的)に耕すための最初のヨーロッパの都市であった都市である。ロッテルダムの様に、そこでは内部に多くの空虚がある。リベスキンドにとって、空虚は満たされうるあるいは建築によって置き換えられうる喪失である。私にとって、重要な事はそれを置き換えることではなく、それを耕すことである。これは一種のポスト建築的都市であり、今ではそれは建築的都市になりつつある。私にとってそれはドラマ(劇、脚本)であり、ある種のスタイリスティック(文体的、様式的)なエラー(間違い)ではない。

P.515(P.85)
Hans Ulrich Obrist:それではそれは建てられている建築の質の問題ではない・・・。

Rem Koolhaas:・・・美(美的価値観)でもない。

→ここでの空虚はemptinessを使っているが、これは「パリ国立図書館案」ではヴォイドの戦略として実際の計画の中に現われてくる。デリダの様に脱構築によって既存のルール(透明な権力)に挑むのがコールハースやアイゼンマンだとすれば、バルトの言う零度「中性」の表現体(エクリチュール)を建築で体現するのは(バルトはその理想を俳句に見つけた)ズントーだろうか?根拠の正統性を言うこと(機能主義、コンテキスト主義も含まれる)の裏には、透明な権力(暴力)が潜んでいる。コールハースの言葉を使えば、「道徳の傲慢で何をすると言うのか?」。コールハースが「カーサ・ダ・ムジカ」で採った戦略はY2Kという住宅の計画をコピー&ペースト、拡大するものだが、これはアイゼンマンがかつて「ラ・ヴィレット公園案」や「ロミオとジュリエット」という計画で行なったものと同じ様な脱構築的操作子の一つだ。全然関係のないもの(ルール)を持ってくること。ジョン・ケージの場合は「易」を使った。またドゥバイの計画ではその地域の開発のデザイン・ルールが奇抜な形態の建物をつくることであるとわかると、今度はその既存のルール(透明な権力)に対しシンプルな建物を提示する。コールハースの言葉「Fuck Context!(コンテキストなんかクソ食らえ!)」である。(井戸)

Daniel Libeskind(ダニエル・リベスキンド)
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Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7
Gilles Deleuze(ジル・ドゥルーズ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA
Pierre-Félix Guattari(ピエール=フェリックス・ガタリ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%BF%E3%83%AA
Michel Foucault(ミシェル・フーコー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC
Roland Barthes(ロラン・バルト)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88
Jacques Derrida(ジャック・デリダ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80
Jean Baudrillard(ジャン・ボードリヤール)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%AB